めくるめく倫理学の世界にようこそ

1.「正しさ」の意味がちがうだけ?メタ倫理学との関係

ここまで、功利主義カント主義/義務論徳倫理学の三つの立場を紹介してきました。ところで、この三つの立場を知った人は、次のような感想を抱くのではないでしょうか。功利主義は何でも白黒付きそうで便利だけど、義務論的な絶対性も納得できる。行為でなく人(性格や動機)を見るべきだという徳倫理学の指摘もその通りだと。そもそも、三つの立場を同時に取れないのでしょうか?

 もう一度、これまで学んだ理論の定式を並べてみましょう。

  • 功利主義:ある行為が道徳的に正しいとは、その行為が帰結としてできるだけ多くの者(や動物)をできるだけ幸福にする(最大多数の最大幸福を実現する)ことである。

  • 義務論:ある行為が道徳的に正しいとは、その行為をしないことが格率(きまり)として普遍化できないことである。あるいは、ある行為が道徳的に正しいとは、その行為をしないことがある人の人間性をたんに手段としてのみ扱ってしまうことである。

  • 徳倫理学:ある行為が正しいとは、その行為がもし有徳な人がその状況にいるならばなすであろう、その人柄にふさわしい行為だということである1。

それぞれは正しさ(right)とは何かを説明しています。ここでの正しさは文法的な正しさや解答の正しさなどでなく、道徳的な正しさであることに注意してください2。

 そこで、次のようには考えられないでしょうか。功利主義は功利主義的な意味での正しさ(それを「正しいu」と呼びましょう)について説明し、義務論は義務論的な意味での正しさ(それを「正しいd」と呼びましょう)について説明し、徳倫理学は徳倫理学な意味での正しさ(それを「正しいv」と呼びましょう)について説明しているだけだと。もしこのように規範倫理学上の立場を正しさの意味に関する立場だと考えれば、立場上の対立はなくなります。それは、「あまい」という言葉に「砂糖のような味だ」という意味と「生ぬるい態度だ」という意味があるとき、「砂糖」派と「生ぬるい」派の対立がないのと同じです。どちらが本当の意味かと言われれば、「どちらも」と答えるでしょう。

 たとえば、「どんな状況であっても約束を守ることが正しいのか」と聞かれたら、それはどんな意味で正しいと聞いているのか、すなわち「どんな状況であっても約束を守ることが正しいuのか」、あるいは「どんな状況であっても約束を守ることが正しいdのか」、それとも「どんな状況であっても約束を守ることが正しいvのか」、これらのどれを聞いているのか、と問うべきです。「これはあまいか」と聞かれたら、それはどんな意味であまいと聞いているのかと問うべきなのと同じです。

 しかし、規範倫理学上の立場は、正しさの意味に関する立場ではありません。正しさの意味は、メタ倫理学で議論されるテーマです3。規範倫理学では、「正しい」の意味は同じだという前提4のもと、ある行為がその意味で正しいという判断の根拠を説明するものは何かについて、功利主義と義務論と徳倫理学で意見が分かれていることになります。(じっさいには、このように規範倫理学とメタ倫理学の作業をはっきり区別している論者は少ないです。そしてもちろん<規範倫理学上で「正しい」の意味は同じだ>という前提を疑うことも大事な作業です。メタ倫理学上の研究が進んで、功利主義と義務論の違いは正しさの意味に関する違いだったことが判明する可能性もあります。)

  以上のように、規範倫理学上の立場の対立は実質的な対立です。対立が実質的だという点で、それは天球上の太陽の移動をめぐる天動説と地動説の対立に似ています。

  • 天動説:天球上で太陽が移動するとは、じっさい太陽が移動することである。

  • 地動説:天球上で太陽が移動するとは、太陽に対して地球が移動することである。

この二つの立場は「天球上で太陽が移動する」の意味に関する立場ではありません。その意味は、天動説側も地動説側も共通しています。辞書的に言えば、それは「観測者を中心とする半径無限大の仮想の球面上で地球に最も近い恒星が位置を変える」ことです。それぞれの立場はこの意味で天球上で太陽が移動するという判断の根拠を説明するものは何かについて意見が分かれているのです。

 もちろん、互いが実質的に対立していることを示すには、違いを明確にし、二つあるいは三つの立場を同時にとると整合的でなくなり矛盾してしまうことを示す必要があります。たとえば、功利主義と義務論は、目的を優先しているか、それとも手段を優先しているか、という点では異なります。したがって、できるだけ多くの者をできるだけ幸福にするためには、人を単に手段として扱ってよいか、という問題が生じます。じっさい、米国で論争になっている「捕まえたテロリストを拷問にかけてよいか」という問題はこれが具体的になったものだと言えるでしょう(たとえばMiller [2009] Ch.6、眞嶋 [2016] 195-217)。

 徳倫理学が功利主義や義務論と違う点は徳倫理学の冒頭で紹介したお見舞いの例が分かりやすいでしょう。「義務だから」や「最善の帰結になるから」はお見舞いに行く適切な動機だと言えません。徳倫理学こそ適切な動機を説明する理論だというわけです。しかし、ハーストハウスの定式にならって「有徳な人ならそうするから」と答えれば、これも冷たい感じで適切な動機だとは言えないでしょう(Keller [2007])。徳倫理学は功利主義や義務論との違いをもう少し明確にする必要がありそうです5。

2.どの立場も極端?研究者の仕事

功利主義+義務論

 では、功利主義と義務論を整合的に組み立て直すことはできるのでしょうか7。じっさい、功利主義者はその枠組みのなかで義務の拘束力や手段を優先するという義務論的な部分を取り込もうと苦心してきました。まず考えられたのは、功利計算を通して正当化する対象を行為でなく規則にしてみようというアイデアで「規則功利主義」と呼ばれます(これに対して従来の立場は「行為功利主義」と呼ばれます)。つまり、ある規則が道徳的に正しいのは、その規則が帰結としてできるだけ多くの者をできるだけ幸福にすることだと考えたらどうかと。私たちが道徳的義務だと考える多くは最大多数の最大幸福を実現するでしょう。規則功利主義は道徳的義務のように功利計算で採用されうる規則によって今度は行為を正当化します。つまり、ある行為が道徳的に正しいのは、その行為がこの規則(道徳的義務の多く)に従うことだと考えるのです。功利計算をして採用された規則に従ったところ今回は最大多数の最大幸福を実現しないかもしれません。そのとき、行為の帰結を功利計算をして確かめずに規則に従ってしまおうというわけです。この特徴は「規則崇拝」と批判されたりしますが、義務論の絶対性を取り込んでいるとも言えます。規則功利主義は、そのアイデアをデイヴィッド・ヒュームまで遡ることができJ. S. ミルも実はこの立場だったのではと言われたりもしますが、有名にしたのはアメリカの倫理学者リチャード・ブラントです(Brandt [1979])。しかし、問題点が多く現在支持する人はそれほどいません8。

 功利主義と義務論を分業体制にしようというアイデアも出されます。ひとつは社会のなかで功利計算する人と道徳的義務にとりあえず従う人を分けようという提案です。イギリスの倫理学者ヘンリー・シジウィックは一般大衆に功利計算させると自分たちの都合が良いように計算してしまうのでまずいという言い方をしています(Sidgwick[1874/1907] 489–90)。だからといってトップだけに功利計算させようというこの考えは、まるでインドを植民地にしたときのイギリス政府のあり方(植民地総督府)だと批判されてきました(イギリスの倫理学者バーナード・ウィリアムズによって「植民地総督府功利主義」(government house utilitarianism)と揶揄されます(Williams [1985] 108)9。

 もうひとつの分業の仕方は私たち一人一人の道徳的思考のなかで功利計算するレベルと道徳的義務にとりあえず従うレベルを分けようという提案です。R. M. ヘア(写真)が提案した「二層理論」(two-level theory)と呼ばれる立場です(Hare[1981])。二層理論では、私たちの道徳的思考を、とりあえず自分の直観に基づき道徳的義務に従うレベル(直観レベル)と、その義務のうちどれに従うべきかという選択やそれらが衝突したときに解決する思考段階として功利計算するレベル(批判レベル)に区別すべきだとされます。しかし、私たちはじっさい2つのレベルで道徳的思考するなんて器用なことはできないのではないかという反論も出されています10。

 別の義務論的な部分を取り込もうという試みもあります。帰結主義一般は、自分が人の命を奪ってしまう場合と自分の行為の結果他の誰かが人の命を奪うことになってしまう場合を区別せず行為者(自分か他の誰かか)から独立した道徳判断を下します。これを行為者中立的と呼びます。他方、義務論はこの意味で行為者中立的でなく、むしろ行為者相対的です。そして、自分が人の命を奪ってしまうほうが自分の行為の結果他の誰かが人の命を奪うことになってしまうことよりも悪いと思うかぎり、道徳判断は行為者相対的であるように思えます(たとえば、Nagel [1986] Ch.IX)。そこで、帰結主義の枠組みでこの行為者相対的な制約を設ける提案(Portmore [2001])や制約とまではいかずともそれを許容する理論(Scheffler [1994])も提案されています。アメリカの倫理学者ダグラス・ポートモアはこうした動きを道徳理論の「帰結主義化」(consequentializing )と呼んでいます(Portmore [2011] Ch.4)。

功利主義+徳倫理学

 功利主義の枠組みのなかに、徳に重きを置いたり動機を優先したりするという徳倫理学的な部分を取り込もうという試みもなされてきました。まず提案されたのは、アメリカの哲学者R. M. アダムズによる「動機功利主義」(Motive Utilitarianism)です(Adams [1976])。規則功利主義を思い出してください。それは行為と規則の二段階で考えようというものでした。動機功利主義は動機と行為の二段階で考えようというアイデアです。すなわち、ある動機が道徳的に正しいとは、その動機が帰結としてできるだけ多くの者をできるだけ幸福にすることだと考えたらどうかと。そして、ある行為が道徳的に正しいのは、その行為がこの動機に従うことだと考えるのです。規則功利主義は「規則崇拝」と批判されました。動機の帰結をその都度功利計算をして確かめずに行為してしまおうという行為功利主義が今度は「行為崇拝」だと批判されることになります。

 行為功利主義はもっぱら正しさの基準として考えられ、意思決定で参照するには多くの問題があります。たとえば、情報や時間が足りないなかで功利計算なんてできないというのがその一つです(お見舞いの例での適切な動機を説明できないという点も問題です)。そこで、イギリスの倫理学者ロジャー・クリスプは正しさの基準として功利主義、意思決定では「有徳に生きるべき」を採用する「徳の功利主義」(Utilitarianism of the Virtue)を提案しています(Crisp [1992])。

 徳を帰結主義的に理解する試みもあります。アメリカの倫理学者ジュリア・ドライバーは徳が不安定(uneasy)であることを強調します(Driver [2001])。アリストテレスの伝統のもとでは有徳な人物は状況を正しく認識できるとされますが、謙虚な人はたとえ自分が世界一のピアニストだとしてもそう認識したりはしません。ドライバーは「無知の徳」(virtues of ignorance)と呼んでいます。また、良いことをしよう意図せず頭ではダメだとわかって奴隷だったジムを逃がしてしまうハックルベリーフィンはそれでも優しさという徳をもっています11。ドライバーはこうした不安定な性格特性がそれにもかかわらず「徳」だとみなされるのは、正しい認識や良い意図といった主観的な要素でなく、善い帰結を系統的に導くという客観的要素によるという客観的帰結主義を提案しています。

義務論+徳倫理学

 徳倫理学は一見するとカントの主張と整合的でありません。徳倫理学が現代に復活した背景には、カントに代表される近代道徳哲学に対するアンスコムやマッキンタイア(あるいはウィリアムズ)からの批判があったことを思い出してみてください。

 しかし、こうしたカント理解は『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』)ばかりに目を向けてきたせいだ、とカント研究者に反論されています。たとえば『道徳形而上学』の「徳論の形而上学的定礎」(以下「徳論」)を読めば、カントが徳(Tugend, virtus)や徳義務(Tugendpflichten)について論じていることに気づきます。そこで、カント主義的な徳倫理学が組み立てられないか検討してみたという研究もあります。

 イギリスのカント研究者オノラ・オニール(写真)はカント倫理学における格率の位置付けに注目します。格率を<行為の指導規則>と捉える従来の解釈が、カントの立場を行為ばかりみて「人」を見ていない立場に誤解させてしまったのではないか。オニールは格率を無数にある個々の意図を組織立てるような<基礎をなす原理>(underlying princicples)だと解釈します(O'Neill [1989] 151)。たとえば、友人を家に招くとき私たちは飲み物を用意しようとしたり部屋に音楽をかけようとしたり個々の意図に基づいて振る舞いますが、それを組織立てるのは友人を歓迎しようという基礎をなす原理ないし意図です。このような<基礎となる原理ないし意図>を格率だとする解釈は、個々の意図に基づいて何をすべきかよりも、それらを通してどう生きるべきかと結びつきやすくなります。オニールは、カントが規則の倫理しか提案していないと批判するマッキンタイアに「カントが主として提案したのは規則の倫理よりもむしろ徳の倫理だ」と返答しています(Ibid. 154)。しかし、これではカント倫理学も結局徳倫理学だったということなのでしょうか(オニールは後にこの言い方がミスリーディングだったとして撤回しています(Ibid. Postscript 161-162))。

 そこでアメリカのカント研究者ロバート・ラウデンは、オニールの格率解釈をある程度受け入れつつ、カント倫理学における道徳法則の役割を強調します(Louden [2011] 10-11)。「徳論」のなかで、カントは「徳義務」と呼ばれるものを論じています(MT 383)。それは単なる行為の目的でなく、同時に義務であるものだと言います。定言命法が成り立つには、この「同時に義務である目的」が存在しなければなりません。カントによればそれは、私自身の完成と他者の幸福です(MT 385)。たとえば、私自身の幸福は目的であっても、それを欲せざるえないがゆえ「同時に義務である目的」にはなりえません。他者の完成もそれを強制することはできますが、私自身が目的として立てるよう強制することはできません。ラウデンはここで、私自身の完成が徳義務であることに注目します。カントによれば、実践理性は私自身の完成を端的に命じ、私のうちにある人間性にふさわしくあるように、この目的を義務にします(MT 387)。ラウデンの解釈によれば、それは法則への尊敬から行為がなされる(つまり、義務にのみ基づくaus Pflicht)ように自分の生き方を陶冶してゆくことにほかなりません(Louden [2011] 11)。ここに<法則への尊敬からなすべき行為が正しいとする>義務論と<徳を通して自分の生き方の陶冶を目指す>徳倫理学の一つの調停を見い出すことができるでしょう。

 ところで、徳倫理学の大本であるアリストテレスは『ニコマコス倫理学』の第1巻の終わりで、有徳な人と抑制(エンクラテイア)がある人を区別して前者のほうが道徳的に優れていると評価しています(NE 1102b10)。それに対し、カントは反対のことを主張しているように見えます(cf. Hursthouse [1999] ch.4)。『基礎づけ』の第1章でカントは、「周囲の人々を一人でも喜ばせることを内心から楽しみ、自分のしたことで他人が満足するなら愉快でいられる」たいへん情け深い気持ちの持ち主が「どれほど義務に適合していようと真正な道徳的価値をもってはいない」のは、「一切の傾向性なしに、ただ義務にのみ基づいて行為するとすれば、その行為ははじめて真正な道徳的価値をもつ」からだと言います(GMS 398)。たしかに、義務にのみ基づいた人を抑制がある人だとし、情け深い気持ちの人を有徳な人だとすれば、カントは前者のほうが道徳的に優れていると評価しているように見えます。しかし、すでに見たように、カントにおいて義務にのみ基づく(aus Pflicht)行為とは法則への尊敬からなされる行為であり、それを通して自分の生き方を陶冶してゆくことです。この点で、たいへん情け深い気持ちの持ち主のほうが実は徳義務を果たしていないと言えるでしょう。

理論の評価基準

 こうして組み立てられた理論はどのように評価されるのでしょうか。すでに挙げた整合性以外にも様々な評価基準が用いられます(伊勢田 [2008] 312-314, Timmons [2012] 337-338 cf.鈴木ほか[2014] 145-147)。以下に一部を挙げてみました。そしてこうした評価基準自体が功利主義寄りだったり義務論寄りだったりメタ倫理学上の特定の立場へのコミットメントだったりするので話はややこしくなります12。

  • 内的整合性:よい道徳理論は、同じ理論のなかであちこちつじつまが合っていなければならない。

  • 他の知見との整合性(外的整合性):よい道徳理論は、自然科学の知見や社会科学の知見と食い違いがあってはならない。

  • 実用性(あるいは適用可能性や行為指導性):よい道徳理論は、ジレンマの解決など行為指針や「いかに生きるべきか」という問いに答えをあたえなければならない。

  • 単純性:よい道徳理論は、できるだけ少ない仮定や原理、存在者だけ用いて現象を説明しなければならない(オッカムの剃刀)。

  • 包括性:よい道徳理論は、できるだけ広範囲の現象を説明しなければならない。

  • 一貫性:よい道徳理論は、その説明方針に関して一貫したものでなければならず、アドホック(その場しのぎ)であってはならない。

  • 直観適合性:よい道徳理論は、私たちの道徳直観や言語直観と合っていなければならない。

3.いま何が議論されているのか?倫理学のフロンティア

この他にも、ケアの倫理、契約論など様々な立場があります。上で紹介したような組み立て作業がこうした他の立場と可能であるかも研究されています。


パーフィットの統一理論

最近注目されているのが、イギリスの哲学者デレク・パーフィット(写真)による統一理論の試みです(Parfit [2011])。パーフィットは大著On What Mattersのなかで規範倫理学のほぼどんな立場も一つの立場に収束すると言います。様々な立場は同じ山を別のルートから登っているにすぎず、頂上で出会うと言うのです。じっさい、パーフィットはカント主義は山を登ってゆくとすぐに契約論と出会い、さらに登ってゆくと規則帰結主義とも出会うことを示します。

そして、自身の理論(三重理論)を次のように定式化します(Parfit [2011] )。

 ある行為が道徳的に不正であるのは、その行為が以下を満たす原理によって許可されていない場合、その場合にかぎる。

  1. それが普遍的法則となることが事態を最善にする原理のひとつである〔規則帰結主義〕、

  2. それが普遍的法則となることを誰もが理性を働かして意欲しうるような原理のひとつである〔カント主義〕、

  3. 誰もそれを理にかなった仕方で拒否できないような原理のひとつである〔契約論〕。

 パーフィットはこのような仕方で他の立場も統一できると予告するのです(前著『理由と人格』に比べると、だいぶカント主義/義務論寄りに転向していますが)13。残念ながらパーフィットは2017年の年明けに亡くなりましたが、彼の論証が成功しているかは引き続き世界中で検討されています14。

 パーフィットの議論ではまた各理論が登る山の存在が前提になっています。これは道徳実在論と呼ばれるメタ倫理上の立場です。つまり、道徳が実在するなら、規範倫理学上の正しさの実質的な対立にもいつか決着がつくと考えているのです。ただし、「実在する」と言っても物体のように時空間に位置づけられるものでなく、数学的事実(1+1=2)のように在るという意味だと言います。On What Mattersではこのタイプの道徳的実在論を擁護しようとも試みられていますが、批判も多いです。

規範倫理学の捉え直し

 規範倫理学上の立場の対立は正しさに関する実質的な対立だと言いました。では、この対立は天動説に対する地動説の勝利のようにいずれはどの立場かが勝利するものなのでしょうか(もちろん地動説の勝利が真理への到達かと言われれば、議論の余地があるでしょう)。これに答えるためには、あらためて立場や理論というものが何なのか考えてみる必要があります。

 立場とはそこに立って発言したり考えたりする立ち位置であり、それを擁護したり相手の立場を批判したりそれに応答する作業を通して一種の陣営と考えられがちです。ところが、イギリスの代表的な功利主義陣営として選好をベースにした功利主義を支持するジョン・ハリスでさえ生命倫理委員会では次のように振る舞うと言います(ハリス [2006] 143)。

私は「自分が支持している特定のタイプの選好功利主義から帰結するものだからこの議論は正しいのです」と言うのではなく、「これらがこの結論を支持していると思われるもろもろの理由です」という仕方で発言し、あとは他の委員たちが他の観点から考察を加えるに任せています。

 これが意味するのは、理論にはトップダウンに判断を下す<基準>や<指針>として役割に加えて、行動や発言の根拠や理由となりうるものを明らかにする<明確化>の役割もあるということです。そこで私は授業などで、理論的にはどの立場が妥当かについて議論が続いているが、実践的にはそれぞれの観点から、最大多数の最大幸福を実現しているか、人を単に手段として扱っていないか、徳ある人がしようとする行動か、など自らの行いを振り返ってみるほうが有効だ、という言い方をしています15。

 では理論的には勝利というものがありうるのでしょうか。パーフィットは『理由と人格』のなかで倫理学の進歩について次のように語っています(Parfit [1984] 454)。

だが、進歩がこれからもっとも大きくありえるのは、こうしたアートや科学のなかで今一番進展していないものにおいてである。それは宗教的でないタイプの倫理学だと私は主張したい。神あるいは神々を信じることは道徳的推論の自由な発展を妨げてきた。神を信じないことが大多数によって公然と認められたのはごく最近の出来事であり、まだ完全にそうなってはいない。この出来事はそれほど最近のことであるので、宗教的でないタイプの倫理学はまだ初期の段階にある。数学のように我々みなが意見の一致に到達するかどうか、我々にはまだ予見できないのだ。

つまり、いずれ理論的な決着はつくかもしれないが、宗教と切り離された世俗的な倫理学はまだ始まったばかりだと言うのです。一方で、日本の倫理学者・品川哲彦はそもそも倫理学という学問は何かが決着がつく類のものではないと述べています(品川 [2015] 257頁)。

こう嘆くひとが出てくるかもしれません― 倫理学には「より正しい」といえる理論さえないのか。結局、倫理学は、いずれは到達する真理にまだ行き着いていない、発展途上にあるということか、と。/私の理解ではそうではありません。むしろ、これは倫理学が人間の生き方と人間という存在に密接に結びついている学問であるゆえに起こることです。

これはパーフィットに対立する見方です。今の倫理学の世界には双方の見方があるように私には思えます。

道徳心理学

 最近では、規範倫理学との関連においても道徳心理学(moral psyhcology)の研究が注目されるようになりました。道徳心理学といっても、心理学だけでなく、神経科学や社会学、人類学、犯罪学そして哲学の研究も含まれます。道徳心理学が注目されるのは、何を正しいと判断すべきかと考えるのに、私たちがじっさいに何をどのように正しいと判断しているかという研究(「記述倫理学」と呼ばれたりもします)が重要になってくるからです。理論の評価基準として、自然科学や社会科学の知見との整合性が挙げられていたことを思い出してください。

(A)道徳判断の神経科学的研究:倫理学で有名な思考実験にトロリー問題(トロッコ問題)と呼ばれるものがあります。それは次のような道徳的ジレンマに立たされるケースです16。

スイッチジレンマ:トロリー(路面電車)が暴走している。もしあなたが何もしなければ、線路に縛り付けられた5名の人々はひき殺される。もしあなたがスイッチを切り替えて、トロリーを別の線路に引き入れれば、5人は助かる。ただし、別の線路に縛り付けられている1人がひき殺されることになる。あなたはスイッチを切り替えるべきだろうか。

歩道橋ジレンマ:先と同様、トロリーが暴走している。もしあなたが何もしなければ、線路に縛り付けられた5名の人々はひき殺される。あなたは歩道橋の上におり、たまたまそばに見知らぬ男性がいる。この男性を橋から突き落とせば、男性は死ぬが、その体がブレーキとなって、トロリーは5人の手前で止まって助かる。あなたは男性を突き落とすべきだろうか。

 一見すると功利主義からは、5人を救うためならスイッチを切り替えるだけでなく、男性を突き落とすことが正しいという反直観的な道徳判断が下されそうです。アメリカの心理学者ジョシュア・グリーンらはこのようなケースで私たちがじっさいにどのように判断を下しているのかを神経科学的にアプローチしています(Greene [2013])。グリーンらは二つの仮説を立てています。

  1. 心理学的に見れば、スイッチジレンマ と歩道橋ジレンマの決定的なちがいは、後者が、前者にはない仕方で情動(emotion)を引き起こす傾向性をもつという点にある。

  2. 被験者の反応が情動を引き起こす反応と合致しないトライアルでは、反応時間が長くなる。

 これらの仮説を確かめるため、グリーンらは歩道橋タイプのジレンマ、スイッチタイプのジレンマ、<電車に乗るべきかバスに乗るべきか>など道徳に直接関係しないジレンマ、の3タイプを合計60ケース分用意し、各ジレンマにおいて被験者はどちらが「適切」(appropriate)でどちらが「不適切」であるかを判断し、その際の脳の状態をfMRI(機能的磁気共鳴映像装置)を使って観察しています。

その結果、歩道橋タイプのジレンマでは、他のタイプのジレンマにくらべて、情動を司る脳の部位(vmPFC, 腹内側前頭前野)が有意に活発に働き、逆にワーキングメモリを司る脳の部位(dlPFC, 背外側前頭前野)が有意に活発に働かないことがわかったそうです(上の画像)。これは仮説1を支持します。

 また、歩道橋タイプのジレンマ(Moral-personal dilemma)では、突き落とすほうが適切だと判断する人でも、不適切だと判断する人より反応時間が著しく遅いこともわかったそうです(上のグラフ)。これは仮説2を支持します。

 グリーンらはこうして支持された仮説群に基づき、道徳判断に関する二重過程理論(dual process theory)を提案しています。この理論によれば、道徳判断では、自動的な過程(vmPFCと扁桃体が情動を引き起こす)とコントロールできる過程(dlPFCがルールを使う)が二重になっているそうです。二重過程理論に基づくと、歩道橋タイプのジレンマにおける道徳判断は次のように説明されます。このジレンマでは突き落とすほうが適切だという判断に抵抗する情動が生じ、それでもこの判断を押し通そうとするから仮説2のように判断するまでに時間がかかる。グリーンはまた、情動を引き起こす自動的な過程を「義務論」に、コントロールできる過程を「帰結主義」に対応させています。そして、カントとは違い、義務論を理性的なものでなく情動的なものとして捉え直そうと試みます17。

 二重過程理論を支持する証拠は他にもあります。

  • vmPFCに関連した部位が働かない前頭側頭型認知症(FTD)の被験者のうち約60%が、歩道橋タイプのジレンマで突き落とすことを「適切」だと判断する(Mendez, et al. [2005])。

  • vmPFCが働かない被験者は他の被験者より約5倍の頻度で「功利主義的」に判断する(Koenigs, et al. [2007]; Ciaramelli, et al. [2007])

  • 情動を高める抗うつ剤(シタロプラム)を被験者に投与すると、歩道橋タイプのジレンマで「功利主義的」に判断をする人が少なくなる(Crockett, et al. [2010])

 こうしてみるとvmPFCが正常に働かなかったり情動が抑圧されたりすると「功利主義的」な判断が生じやすくなるようです(最近ではvmPFCが情動に特化したものでないこともわかってきています)。そこで、グリーンらの狙いとはちがい、二重過程理論やそれを支持する実験は功利主義の病理性を暴くものとして解釈されることがあります。しかし、注意すべきなのは、そもそも功利主義から、スイッチを切り替えたり、男性を突き落とすことが正しいという道徳判断が必ずしも出てくるわけではない、ということです。男性を突き落とすべきだという反直観的な判断が正当化される世の中なら、自分も突き落とされるかもと不安になった人々の幸福度が全体的に下がってくるはずだからです。もしこうした実験に基づいて規範倫理学の検証を行うのであれば、道徳理論の十分な理解とともに実験デザインをもっと工夫する必要がありそうです18。

(B)感情主義:ここまで見てきたように、理性に代わって情動あるいは感情に道徳判断における決定的な役割を見出す立場は近年「感情主義」(sentimentalism)と呼ばれ、従来の理性主義と対比されます。「情動の犬、理性のしっぽ the emotional dog and its rational tail」(情動が先で理性的な推論は後付け)で知られる、アメリカの道徳心理学者ジョナサン・ハイトの社会的直観モデル(social intuitionist model)もこの流れに与しています(Haidt [2001])。感情主義自体は規範倫理学上の立場ではありませんが、グリーンらのカント批判など規範倫理学とのつながりを見出すこともできます。

 感情主義でもう一つ興味深いのは、アメリカの道徳心理学者ジェシー・プリンツの感受性理論(sensitivity theory)です(Printz [2007])。感受性理論も規範倫理学上の立場でなく、ある行為が正しいという道徳判断には、正しさという道徳的性質とそれを認知し反応するだけの感受性の両方が必要だというメタ倫理学上の考え方です。プリンツによれば、この点で道徳判断は面白さと似ているといいます。面白いという判断はそこにじっさいに面白さがあり、同時にそれがわかり面白がるだけの感受性が必要になってきます。功利主義が功利計算で道徳判断を下し、義務論が理性を働かせて道徳判断を導くのに比べ、徳理論学は感情が道徳判断に不可分であることを強調するので感受性理論に親和的です。じっさい徳倫理学者に数えられるマクダウェルやデイヴィッド・ウィギンズが感受性理論を展開してきました。徳を積むだけ正しさが見えてくると言えばわかりやすいかもしれません(では、頭でわかっていても徳を積んでいない人物には正しさが見えないのでしょうか。プリンツは道徳版のメアリーの部屋といったアイデアを出していて面白いです)。

 ところで、私たちの感受性は様々な形で歪められてしまいます。感情主義はここで情動的・感情的要因を強調します。感受性理論が正しければ、こうした要因によって感受性が歪められてしまうと、道徳判断までもが歪められてしまうはずです。そして心理学の実験はこの予測を裏付けています。たとえば、トロリー問題の前に5分間のコメディ(サタデー・ナイト・ライブの一部)を見せると男を突き落とすことを「適切」だと判断する傾向が強まるという実験結果が報告されています(Valdesolo & DeSteno [2006])。また、手を洗ったり、汚い部屋や不快な映画などによる嫌悪感(disgust)も道徳判断に変化をもたらすと言われてきました(Schnall, Haidt, Clore and Jordan [2008]; 太田 [2016a] 15, 232-233)。

(C)状況主義からの批判:徳倫理学では「性格特性」と呼ばれる状況間で一貫した傾向性が前提になっていました(徳倫理学)。ところが社会心理学の実験結果はそんな傾向性の存在に疑いを投げかけています。たとえば、正直さに関するある心理学実験では、子どもを被験者に(1)誰もいない教室の机に小銭があり盗むことができる状況、(2)嘘をつくことでトラブルを回避できる状況、(3)自己採点中に正答をカンニングできる状況、で彼らがどんな行動をとるかが観察されました(Hartshorne & May [1928])。なぜこんな状況での行動を調べるかというと、「正直な」性格特性なんていうものをもつことができるならば、盗みもしないし嘘もつかないしカンニングもしないだろうと通常我々が思っているからです。そして、実験の結果、盗むことと嘘をつかないこと、盗むこととカンニングをしないこと、嘘をつかないこととカンニングをしないことそれぞれの相関係数の平均値が比較的小さいことがわかりました。このことが示すのは、状況間で一貫した「正直な」行動なんて本当はないかもしれないという可能性です。状況主義からの批判(The Situationist Critique)とは、こうした実験結果を証拠に、状況間で一貫した傾向性を前提にして展開される徳倫理学を批判する議論のことを言います19。


 このように道徳心理学の知見は道徳理論を評価するうえで重要になってきています。ただし、その知見を安易に鵜呑みにすることは控えるべきだと思います20。たとえば、手を洗うことが道徳判断に影響を与えるという実験は一時期話題になりました17が再現できていません(Johnson et al. [2008] )。嫌悪感が道徳判断の変化と関連しているという研究もメタ分析やサンプルサイズを大きくした追試からその関連性が否定されています(Landy&Goodwin [2015]; Johnson et al. [2016])。これは感情主義の証拠を掘り崩すでしょう。また、上記のような実験の解釈や実験で検証される道徳理論が誤解されたものでないかなどを確認することも必要になってきます。


 以上、長々と倫理学の世界を紹介してきました。まだ倫理学の入り口付近ですが、ここまで読まれた方ならこの先を自分で進んでゆけると思います。よい旅を。

練習問題(難しめ)

  • 実質的な対立だと思ったら意味のちがいにすぎなかったということもあります。どんな例があるか探してみてください。

  • 義務論の枠組みのなかで功利主義的な部分を取り込むにはどうしたらよいでしょうか。

  • 上に挙げた理論の評価基準から功利主義、義務論、徳倫理学を評価してみてください。

  • グリーンの二重過程理論はヘアの二層理論を裏付けるでしょうか。

  • 道徳心理学の本で紹介された実験のなかで再現可能でなかったものを挙げなさい。

  • 周りに倫理学者がいれば、ここで挙げたようなトピックについてどんな意見をもつか聞いてみてください。

  1. 徳倫理学では「道徳」と「倫理」を区別して、前者に対抗する形で後者を使うことが多いので、上の定式には「道徳的に」が入っていません。ただし、バーナード・ウィリアムズに代表されるこうした区別は、アリストテレスに偏向しすぎていて、ストア派的な見方が無視されているという批判もあります。

  2. いろいろな「正しさ」については、(八木沢 [2016])。

  3. メタ倫理学上の立場として、正しさの意味に関する功利主義も考えられます。それはアメリカの倫理学者マイケル・スミスが「非主観的な定義に基づく自然主義の一形態」として紹介する功利主義です。マイケル・スミスは、イギリスの哲学者A. J. エアが「功利主義」を批判するとき規範倫理学上の立場でなく意味に関するこの立場を批判してしまっていると言います(Smith [1994] 26-27: 邦訳37)。

  4. たとえば、マイケル・スミスは「正しい行為とは、何らかの仕方で、人間の繁栄や維持、あるいはそれへの貢献に関係していることが多い」、「正しい行為は何らかの仕方で平等な配慮と尊敬を表している」など正しい行為についての私たちの常識的真理(platitudes)があると言います(Smith [1994] 40: 邦訳55)。

  5. ハーストハウスの徳倫理学に向けられた様々な反論については、ハーストハウス自身による解説がよくまとめられています。

  6. 徳倫理学の注でも指摘したように理論化に反対する人もいます。

  7. こうしたハイブリッド功利主義については、伊勢田 [2007]に簡単な解説があります。ここからダウンロード可能です。

  8. たとえば、ブラントの例外条項(Brandtian exception clause)と呼ばれるものを正当化することが難しく課題になっています。少し前、アメリカの倫理学者ブラッド・フッカーが規則功利主義を擁護しようと試みて話題になりました(Hooker [2000]))。

  9. オーストラリアの倫理学者ロバート・グッディンが功利主義は個人道徳としてよりも公共政策に対して親和的だと論じています(Goodin [1995])。また、日本の法哲学者・安藤馨は統治理論としての功利主義を擁護しています(安藤 [2007], 安藤[2017a])。

  10. そこで、日本の倫理学者・伊勢田哲治は、二層理論のような道徳的思考の「レベル」ではなく、道徳直観が存在するかどうか「ドメイン」(領域)で功利計算を使い分ける「未確定領域功利主義」を提案しています(Iseda [2008])。この立場では、二層理論と違い、道徳的義務を功利計算を通して導くことはしません。

  11. ハックルベリーフィンの冒険はイギリスの哲学者ジョナサン・ベネットの論文(Bennet [1974])以降、倫理学でよく挙げられる小説の一つです。

  12. 伊勢田先生の『動物からの倫理学入門』の合評会で同様の指摘をしたことがあります(リンク、12-14頁)。伊勢田先生の応答は評価基準に対しても反照的均衡法を適用する(それに近いことを科学哲学者のラリー・ラウダンが行なっている)というものでした。

  13. 私は2010年にパーフィット先生の授業に出席したことがありますが、この枠組みのなかに徳倫理学も組み込まれるかと質問したところ、理論化に反対しないかぎり組み込まれるとおっしゃっていました。

  14. パーフィットの三重理論とその問題については、安藤[2017b]がおすすめです。元になった発表原稿はここで読めます。

  15. 原理・原則のこうした使い方については実は医療現場で有名なビーチャム&チルドレスの「生命倫理の四原則」をめぐって議論されてきました。ジョンセンの四分割表もかかわってきます。この議論は奥田 [2012]第2章(元論文はここで読めます)、圓増 [2017]が詳しいです。

  16. 児玉( [2012] 42-43頁)から。漢数字はアラビア数字に変更しました。スイッチジレンマはフィリッパ・フットが二重結果の原則を批判し、積極的義務と消極的義務の区別を擁護するために考案したもので、J. J. トムソンがそれに歩道橋ジレンマなどを追加して「トロリー問題」と名付けたあたりからさかんに議論されるようになりました(Foot [1978] 23; Thomson [1986] 81)。ただし、この思考実験そのものが不道徳なのではないか、という声もあります(Morioka [2017])。

  17. グリーンによる義務論の捉え直しについては、永守 [2016]で検討されています。

  18. トロリー問題の実験デザインについては、太田 [2016b]が詳しいです。ワーディングや呈示順序によるバイアスの取り除き方などが主に論じられています。

  19. Sreenivasan [2013]では、状況主義からの批判に対して徳倫理学を擁護する試みがなされています。

  20. 海外の倫理学者たちのブログPEA Soupに投稿されたアメリカの実験哲学者ジョシュア・ノーブ(ノーブ効果knobe effectで有名)のコメントを参考にしています(リンク)。

参考文献

アリストテレスの著作は『ニコマコス倫理学』をNEとする。頁数はアカデミー版で示す。

カントの著作は『道徳形而上学上学の基礎づけ』をGMS、「徳論の形而上学的定礎」をMTとする。頁数はすべてアカデミー版で示す。

  • Adams, R. M. [1976] "Motive Utilitarianism", The Journal of Philosophy, Vol. 73, No. 14, pp. 467-48.

  • Brandt, Richard B. [1979] A Theory of the Good and the Right, Clarendon Press.

  • Bennet, Jonathan [1976] "The Conscience of Huckleberry Finn", Philosophy, Vol. 49, No. 188, pp. 123-134.

  • Ciaramelli, E., Muccioli, M., Ladavas, E., and di Pellegrino, G. [2007] “Selective deficit in personal moral judgment following damage to ventromedial prefrontal cortex”, Social Cognitive and Affective Neuroscience, Vol.2, No.2, pp.84-92.

  • Crisp, Roger [1992] "Utilitarianism and the Life of Virtue", The Philosophical Quarterly, Vol. 42, No. 167, pp. 139-160.

  • Crockett, M. J., Clark L, Hauser, M. D., and Robbins T.W. [2010] “Serotonin Selectively Influences Moral Judgment and Behavior through Effects on Harm Aversion”, Proceedings of the National Academy of Sciences, Vol.107, No.40, pp.17433-17438.

  • Driver, Julia [2001] Uneasy Virtue, Cambridge University Press.

  • Foot, Phillipa [1978] "The Problem of Abortion and the Doctrine of Double Effect", in her Virtues and Vices, University of California Press.

  • Goodin, Robert E. [1995] Utilitarianism as a Public Philosophy, Cambridge University Press.

  • Greene, Joshua [2013] Moral Tribes: Emotion, Reason, and the Gap Between Us and Them, Penguin Books.(邦訳:ジョシュア・グリーン(竹田円訳)『モラル・トライブズ』、岩波書店、2015年。)

  • Haidt, Jonathan [2001] "The Emotional Dog and Its Rational Tail: A Social Intuitionist Approach to Moral Judgment", Psychological Review, Vol.108, Issue 4, pp.814-34.

  • Hare, R. M. [1981] Moral Thinking: Its Level, Method and Point, Oxford University Press. (邦訳:R. M. ヘア(内井惣七・山内友三郎監訳)『道徳的に考えること:レベル・方法・要点』、勁草書房、1994年。)

  • Hartshorne, H. and May, M. A. [1928] Studies in the Nature of Character, Vol.1: Studies in Deceit, Macmillan.

  • Hursthouse, Rosalind [1999] On Virtue Ethics, Oxford University Press.

  • Iseda, Tetsuji [2008] "Unsettled-Domain Utilitarianism:A Revision of Hare's Two-Level Theory for Application", 『哲学』 59号, 25-38頁。

  • Johnson, D. J., Cheung, F., and Donnellan, M. B. [2008] "Does Cleanliness Influence Moral Judgments?: A Direct Replication of Schnall, Benton, and Harvey (2008)", Social Psychology, Vol.45, Issue 3, pp.209-215.

  • Johnson, David J. et al. [2016] "The Effects of Disgust on Moral Judgments: Testing Moderators", Social Psychological and Personality Science, Vol. 7, issue 7, pp.640-647.

  • Keller, Simon [2007] "Virtue Ethics is Self-Effacing", Australasian Journal of Philosophy, Vol.85, Issue 2, pp.221–32.

  • Koenigs, M., Young, L., Adolphs, R., Tranel, D., Cushman, F., Hauser, M., et al. [2007] “Damage to the Prefrontal Cortex increases Utilitarian Moral Judgements.”, Nature, Vol.446, No.7138, pp.908-911.

  • Landy, Justin and Goodwin, Geoffrey [2015] "Does Incidental Disgust Amplify Moral Judgment? A Meta-Analytic Review of Experimental Evidence", Perspectives on Psychological Science, Vol.10, Issue 4, pp.518-36.

  • Louden, Robert [2011] "Kant's Virtue Ethics", in his Kant's Human Being: Essays on His Theory of Human Nature, Oxford University Press, Ch.1.

  • Mendez, M.F., Anderson, E., Shapira, J.S. [2005] “An Investigation of Moral Judgement in Frontotemporal Dementia”, Cognitive and Behavioural Neurology, Vol.18, Issues 4, pp.193–197.

  • Miller, Seumas [2009] Terrorism and Counter‐Terrorism: Ethics and Liberal Democracy, Wiley.

  • Morioka, Masahiro [2017] "The Trolley Problem and the Dropping of Atomic Bombs", Journal of Philosophy of Life, Vol.7, No.2, pp.316-337

  • Nagel, Thomas [1986] The View from Nowhere, Oxford University Press.(邦訳:トマス・ネーゲル(中村昇、山田雅大、岡山敬二、齋藤宜之、新海太郎、鈴木保早訳)『どこでもないところからの眺め』春秋社、2009年。)

  • O'Neill, Onora [1989] "Kant after Virtue", in her Constructions of Reason: Explorations of Kant's Practical Philosophy, Cambridge University Press, Ch. 8.

  • Parfit, Derek [1984] Reasons and Persons, Oxford University Press. (邦訳:デレク・パーフィット(森村進訳)『理由と人格──非人格性の倫理へ』、勁草書房、1998年。)

  • Parfit, Derek [2011] On What Matters , Vol.1-2, Oxford University Press.

  • Portmore, Douglas W. [2001] "Can an Act-Consequentialist Theory Be Agent Relative?", American Philosophical Quarterly, Vol.3, pp.363-77.

  • Portmore, Douglas W. [2011] Commonsense Consequentialism: Wherein Morality Meets Rationality, Oxford University Press.

  • Printz, Jesse [2007] The Emotional Construction of Morals, Oxford University Press.

  • Scheffler, Samuel [1994] The Rejection of Consequentialism: A Philosophical Investigation of the Considerations Underlying Rival Moral Conceptions, Oxford University Press.

  • Schnall, S., Haidt, J., Clore, G.L.,and Jordan, A. H. [2008] "Disgust as Embodied Moral Judgment", Personality and Social Psychology Bulletin, Vol.34, Issue 8, pp.1096-109.

  • Sidgwick, Henry [1874/1907] The Methods of Ethics. 7th ed., 1907. Reprinted by Hackett Publishing Company, 1981.

  • Smith, Michael [1994] The Moral Problem, Blackwell Publishing.(邦訳:マイケル・スミス(樫則章監訳)『道徳の中心問題』、ナカニシヤ出版、2006年。)

  • Sreenivasan, G. [2013] “The Situationist Critique of Virtue Ethics”, The Cambridge Companion to Virtue Ethics, Cambridge University Press, Ch. 13.(邦訳:ゴバル・スリーニヴァサン「徳倫理学に対する状況主義者からの批判」、ダニエル・C・ラッセル(立花幸司監訳)『ケンブリッジ・コンパニオン 徳倫理学』、春秋社、2015年、第13章。)

  • Thomson, J. J. [1986] "Killing, Letting Die and the Trolley Problem", in her Rights, Restitution, and Risk: Essays in Moral Theory, edited by W. Parent, Harvard University Press.

  • Timmons, Mark [2012] Moral Theory: An Introduction, 2nd Edition, Rowman and Littlefield Publishers.

  • Valdesolo, Piercarlo and DeSteno, David [2006] "Manipulations of Emotional Context Shape Moral Judgment", Psychological Science, Vol.17, Issue 6, pp.476-7.

  • 安藤馨 [2007] 『統治と功利』、勁草書房。

  • 安藤馨 [2017a] 「統治理論としての功利主義」、若松良樹(編)『功利主義の逆襲』、ナカニシヤ出版、第7章。

  • 安藤馨 [2017b] 「帰結主義と「もしみんながそれをしたらどうなるか」」『日本カント研究 18』、知泉書館 、54-72頁。

  • 伊勢田哲治 [2007] 「功利主義系理論と道徳的直観」(特集 功利主義の再検討)、『創文』、494号。24-27頁。

  • 伊勢田哲治 [2008] 『動物からの倫理学入門』、名古屋大学出版会。

  • 圓増文 [2017]「ディレンマ解決の取り組みにおける原則アプローチの意義について : 臨床倫理の視点から」、『応用倫理』、Vol.12, 1-16頁。

  • 太田紘史(編) [2016a] 『モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学』、春秋社。

  • 太田絋史 [2016b] 「道徳直観は信頼不可能なのか」、太田紘史(編) 『モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学』、春秋社、第5章。

  • 奥田太郎 [2012]『倫理学という構え:応用倫理学原論』、ナカニシヤ出版。

  • 品川哲彦 [2015] 『倫理学の話』、ナカニシヤ出版。

  • ハリス, ジョン [2006] 「科学・倫理・社会」ジュリアン・バジーニ、ジェレミー・スタンルーム(松本俊吉訳)『哲学者は何を考えているのか』、春秋社、第8章。

  • 鈴木生郎・秋葉剛史・谷川卓・倉田剛 [2014]『ワードマップ現代形而上学──分析哲学が問う、人・因果・存在の謎』、新曜社。

  • 永守伸年 [2016] 「感情主義と理性主義」、太田紘史(編)『 モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学』、春秋社、第4章。

  • 眞嶋俊造 [2016] 『正しい戦争はあるのか?戦争倫理学入門』、大隈書店。

  • 八木沢敬 [2016] 『「正しい」を分析する』、岩波書店。

倫理学の理論を本格的に学びたい人向けの読書案内

Marcia W. Baron, Philip Pettit, and Michael A. Slote [1997] Three Methods of Ethics: A Debate, Blackwell.

  • 帰結主義者フィリップ・ペティット、義務論者マーシャ・バロン、徳倫理学者マイケル・スロートの三人によって書かれた本です。各論者は他の立場との違いを明確にしつつ自身の立場を展開しているので、大変勉強になります。

マイケル・スミス [2006]『道徳の中心問題』(樫則章監訳)、ナカニシヤ出版。

  • メタ倫理学を日本語で勉強するなら必読の本だと思います(残念ながら絶版です)。規範倫理学との関係も見えてきます。内容はやや難しいので、これを読む前に、佐藤岳詩『メタ倫理学入門:道徳のそもそもを考える』勁草書房、2017年 を読むことをおすすめします。英語が読める人は、Alexander Miller, Contemporary Metaethics: An Introduction, 2nd edition, Polity, 2013.もおすすめです。

Derek Parfit [2011] On What Matters , Vol.1-2, Oxford University Press.

  • 本文で解説しました。とにかくでかいです。最近、第3巻も出ました。

太田紘史(編)・小田亮・田中泉吏・ 飯島和樹・永守伸年・信原幸弘・片岡雅知・立花幸司・吉田敬 [2016]『 モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学』、春秋社。

  • 日本の哲学者・倫理学による道徳心理学の解説です。英語が読める人はValerie Tiberius, Moral Psychology: A Contemporary Introduction, Routledge, 2014.もおすすめです。