『星野リゾートの教科書』の取材から8年が経過しました。教科書を参考にする経営は今も変わらないのでしょうか。
星野:教科書は今も私にとって大切であり、まったく変わりません。
ビジネスに頭を切り替えて留学したことが契機
教科書を経営に生かそうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
星野:大学時代の私は体育会でアイスホッケーに打ち込んでいました。卒業にあたって、「さて。今度はビジネスに頭を切り替えて親の旅館を継がなければ」となったとき、米コーネル大学の大学院に行ったことが教科書と出会うきっかけになりました。振り返ると、コーネルではとにかく教科書ばかり読んでいたし、そこから経営の世界に入ったのが大きいと思います。
米国で教科書を読むことによって私はまず「ビジネスは研究の対象だ」と知ることができました。コーネルの教授陣は精力的に企業の調査・研究を進め、そこから法則を見つけ出そうとしていました。こうした教授たちの下で教科書を読み、「こんなときにはこうする」「市場調査にはこんな定石がある」「ヒューマンリソースマネジメント=人事はこういう研究が進んでいる」といったことをたくさん学びました。勘やセンスでなく、経営学はあくまでもロジックの世界。「これはなかなか頼れるな」と思うようになりました。
ファミリービジネスの後継者には先代がいます。先代から学ぶ、といった発想は持たなかったのでしょうか。
星野:自分の場合、それは全然ありませんでした。というのも、当時の私は「先代はすごい」といった感覚を持っていませんでしたから。
教科書はあくまでも教科書であって「実際の経営には通じない」「理論と実際の経営は違う」といった言い方も耳にします。
星野:強調したいのは、教科書は部分的に採用してもダメだということです。全体をトップが先頭に立って徹底するのが重要です。会社全体で取り組まずに「この部署だけで」などとやろうとしても、教科書はうまく使えないと思います。
このため、トップが全体方針として徹底できる環境がすごく重要ですが、それがあるのが実はファミリービジネスだと思います。私が入社したときには軽井沢の温泉旅館1軒でしたが、少なくともそういうことができる環境にはありました。
全体をやらなければ、と気づいたのはなぜだったのでしょうか。
星野:理論がそうなっているからです。たとえば米国の経営学者、ケン・ブランチャードの理論に従ってフラットな組織を導入するとき、「一部だけでもうまくいく」とは教科書のどこにも書いてありません。あくまでも「全体がフラットでないといけない」と書いてあるのです。そのために「ピラミッドをアップサイドダウン(さかさま)にしろ」「トップから始まらないとダメだ」と明確に言っているのです。
全体が大切であることについて、実は経験的にも理解できるところがあります。
星野:冒頭の話と関係しますが、私は小学生まではスピードスケートに取り組んでいました。そのときは個人競技で自分が走ればいいのだから、他の人を気にする必要がありませんでした。
しかし、アイスホッケーに転じてからは、状況がまったく変わりました。チームスポーツであるアイスホッケーは自分だけがどんなに頑張っても勝てないからです。アイスホッケーはあくまでも全体がどう動くかどうかが大切。選手一人だけが動き方を変えても、全体にほとんど効果がありません。会社もチームであり、だからこそ全体が大切なのです。
それでも教科書を使うときに「なかなか全部はできないので、できるところから少しずつやろう」という声をときどき耳にします。
星野:「できるところからやっていこう」は、それなりに効果があるかのように聞こえるかもしれません。しかし、実際には効果がありません。だから私がそうすることはありません。組織全体が動かないときには、できる部署だけでよさそうなことをやってもうまくいかないのです。
正しさが証明されているため迷わずに進める
組織が大きくなるほど、教科書に取り組むのが難しくなるのでは。
星野:実際、規模が大きくなると教科書の徹底は難しくなりますが、教科書ではこうした難しさがあることもきちんと記しています。そして大変だったとしても、徹底できればその分、効果が出るのです。
たとえば『ブランド・ポートフォリオ戦略』は、星野リゾートが参考にしている米国の経営学者、デービッド・アーカーによる教科書です。同書にはブランドづくりを進める場合、全体を束ねる「マスターブランド」戦略がいいのか、「個別ブランド」戦略で戦うのかについて、詳しく書いてあります。その内容を踏まえて、星野リゾートは「マスターブランド」に集中的に経営資源を投下することを決定しています。
高級温泉旅館を「界」というブランドに統一したのもこのためです。界のなかにはそれまで別の施設名だったところがありました。しかし、この教科書によって大変なことを乗り越えてもブランドの統一に取り組むだけのメリットがあると証明されていたため、迷わず進むことができました。
一方、規模が大きくなるにつれて、経営者が全社に教科書の手法を徹底することが難しくなります。
星野:それでも私は一生懸命伝えています。たとえばブランディングについては毎年ブランドの認知率などを公表するなど、社員にできるだけ興味を持ってもらう努力をしています。ホテルや旅館の総支配人は新卒で入社した社員が増えており、価値観や組織の大事な文化を継承してくれるようになってきました。
星野リゾートの一連の経営改革を考えたとき、原点となったのはどの教科書でしょうか。
星野:やはりケン・ブランチャードの『社員の力で最高のチームをつくる 1分間エンパワーメント』の存在が大きかったと思います。
星野:この本が出る前から私はブランチャードの理論を理解していましたが、内容は同書が一番まとまっていると思います。社員が自分で考えて、自律的に動く。そんなモチベーションの高い状態を維持することが収益の改善に重要だという理論を経営者がまず信用するのが重要です。やはり理論を信用しなければ、取り組もうと思うことはないはずです。
このやり方でなければ、今のスピードで成長できなかった
星野:星野リゾートの場合には1990年代までは社員のリクルーティングでとても苦労していました。なかなか入社してくれないし、せっかく入社してもその社員が辞めていったのです。そんな状態を変えるには私はこの方向しかない、自社にぴったり合うと思いました。スタッフ一人ひとりが楽しんで仕事をする。それが定着率を高め、新しいアイデアを生む――。人材が豊富でなかった当時の星野リゾートにとってこれはもっとも望んでいたことでした。
導入にあたっては、私がフラットな組織を「我々の文化にします」と宣言するところから始め、今では社内に言いたいことを言いたい人に言いたいときに言える組織文化ができています。
ときどき誤解されますが、フラットな組織でフラットな議論が行われているからといって、私が「社員に意見を出していただき、自分は思っていることを言わない」わけではありません。私もフラットな組織の1人。だからどんどん発言しますし、そう簡単に議論で負けるとは思っていません。私に従うのはあくまでも言っていることが正しいからであり、ポジションによるわけではありません。フラットな組織とはそういう状態です。
このやり方でなければ、今のスピードで成長できなかったでしょうか?
星野:もちろんそうです。社員が考えるからこそ、どんどん施設の魅力を発掘してくれるし、それが収益につながっているのです。
フラットな組織で議論するなかで「そんなことを言っているなら、その分早くやってくれよ」と思うことはないですか?
星野:「やってくれよ」と思ったことはありません。正しいのがどれかという話はしますが、早くやってくれと言うことはありません。あくまでも正しくやってもらうのです。
定着には時間がかかるのではないでしょうか。
星野:けっこうすぐにできますよ。2018年4月から現在の施設名で運営するOMO7旭川(北海道旭川市)の場合、都市観光ホテルとしては星野リゾートにとって最初の案件ですが、フラットな組織の定着は意外なくらい早く、効果は即座に出ています。
旭川は再生案件でもともとは典型的な地方のグランドホテルでした。宿泊、宴会、ブライダル、レストランという4つの事業がありますが、バラバラに戦ってシナジーが効かないままで、それぞれ少しずつ競合にシェアを奪われていました。そこで私は「スクラムを組み直そう」と呼びかけることから始めました。課題について考えてもらい発表してもらううちに、社員の意見が出てくるようになりました。
グランドホテルの再生は規模も大きいし難しいのですが、こうした案件が回ってくるようになったのは自力がついてきたからだと思います。
教科書を経営に活用し始めたころと比べて経営環境は大きく変わりましたか。
星野:会社を継いだ91年と比べたら、旅行市場ははるかに活性化しています。振り返ればバブル経済が崩壊し、不良債権処理が始まったころは「リゾートホテルは全部不良債権」のように言われたことまでありましたから。しかし、最近は正反対の状況であり、星野リゾートについても各施設の業績は間違いなく伸びています。
教科書は少しずつ増えているのでしょうか。
星野:インターネット時代にマーケティングがどう変わるのか、販売促進策がどう変わるかには強い関心があります。しかしこの分野は変化が激しく、何が定石になるかまだ混沌としており、なかなか教科書となる本がありません。
体系化した「SNSマネジメント」はまだない
たとえばSNS(交流サイト)について、「いいね」の数が利益にどう関係しているのか、どうして大事なのか、いくつまで集めればいいのか、わかっていません。教科書がない分、私は参考になる事例がないか探すことを意識し、どういうパターンでの成功がありうるのかをみています。「面白い事例」はありますが、何が正しいかはまだわかりません。いずれ「SNSマネジメメント」が体系化するかもしれませんが、こうした分野は「これが正しい」と証明してから始めるのでいいかもしれないと思います。最初に証明する人が一番お金を使い、一番損をすることにもなりかねないからです。
ホームページのあり方も同じです。マーケティングやマスターブランドと関係しており、エージェントはネット上でつながってきています。しかし、全体としてはまだ混沌としていて、正しいやり方が見えていません。
教科書が間違っていると感じたことはありますか。
星野:論文で証明されている以上、それはありませんし、自社に合わせた使い方をすることもありません。チューニングすべきだという理論があるならそうしますが、そんな理論はありません。だいたいチューニングしたところで、その方法が正しいかどうかが証明されていません。
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「課題に直面するたびに、私は教科書を探し、読み、解決する方法を考えてきた。
それは今も変わらない」--第1部「星野佳路社長が語る教科書の生かし方」より
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