シェンムーI&II - レビュー

人を選ぶ傑作

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『シェンムー 一章 横須賀(以下、I)』は、発売した1999年当時の基準でレビューすれば、間違いなく満点でいい。あれほど「生きている」ゲーム世界は前代未聞だったし、探索の幅は昨今のゲームですらほとんどお目にかかれないほど充実していた。グラフィックスは同じ1999年のゲームと比べると大人と子供の差であり、すべてのNPCがフルボイスで話しかけてくるなど、10年以上先のスタンダードに達したという驚異的な作品だった。その2年後に発売した『シェンムーII(以下、II)』もまた、当時なら僕は満点スコアを与えていただろう。ストーリーがそのまま続き、システムやメカニクスも基本的に前作から受け継ぎいでいるのに、これだけ前作と違うゲーム体験が作り出されたことに驚愕した。『I』はオープンワールドの元祖と呼ばれるけれども、『II』のいち部分はウォーキングシミュレーターやいわゆる雰囲気ゲーの先駆けでもあり、そのあたりはもっと評価されてもいいはずだ。オープンワールドのようなフィールドデザインは、シェンムーという革新の一部に過ぎない。


この偉大な2作はずっとドリームキャストに閉じ込められたままで、いつのまにか「未完の伝説のゲーム」と言われるようになった。そして、『I』から17年の時を経て、伝説は『シェンムーI&II』として再び姿を現し、誰でも気軽に手にとれるようになった。

伝説は『シェンムーI&II』として再び姿を現し、誰でも気軽に手にとれるようになった。

しかし、子供として遊んでいた僕らの髪が薄くなってきたのと同じように、当時は新しく輝いていた『シェンムー』も今では老人のような風格がある。もちろん、『スーパーマリオワールド』や『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のようになかなか老けないゲームもあるが、一般的にゲームは人間よりも早く老けてしまう。

『シェンムー』は変わったケースで、当時面白かった部分は比較対象が存在する今、より一層輝いて見える。同じ理由から、粗もさらに煩わしく感じる。

例えば、『I』では時間をスキップできない。時間がリアルに進み、1日が約1時間に相当する『シェンムー』。その世界において、誰かに「明日の12時ね」と言われてしまえば、本当に待たなければならない。玄人のファンは「それでこそシェンムー」と言うのかもしれないが、それは新規プレイヤーに対してフェアではない。スキップしたくない人はその機能を利用しなければいいだけの話だし、ゲーム内の待ち時間がカジュアルユーザーのためにハードルを上げてしまっていることは否めない。何度も周回プレイをする僕だって、今では時間を持て余してしまう。『シェンムーII』では約束の場所の前で「待つ」という機能がついたことからすれば、当時の開発陣もこれを「問題」として認識していたことがわかる。

気になるところは、今回の再リリースでそういった点に変更が施されているかどうかだが、答えはノーだ。『シェンムーI&II』はあくまで移植であり、当時の体験をそのまま提供しようとしている。『I』でうまくいかなかった点から学んで『II』で修正したものに関しても、再リリース版の『I』では修正されていないままだ(どこでもセーブできるようになったことを除く)。

 


『シェンムーI&II』をレビューするにあたり、そもそも僕が何をレビューしているのか、書いている途中に何度もわからなくなった。『シェンムー 一章 横須賀』と『シェンムーII』という2本のゲームそれ自体をレビューしているのか。それとも、移植の品質なのか。古参のファンなら後者が知りたいはずだが、初めて『シェンムー』をプレイする人はそもそもどういうゲームなのか知りたいだろう。となれば、僕はその両方を天秤にかけることが必要だ。

2018年基準で見る『シェンムー』


冒頭に、当時なら『I』と『II』は満点でいいと言ったけれども、では2018年にレビューするならばどうなのか? 単独で見れば、『I』は7.8点くらいまで落ちてしまいそうだが、『II』は今でも9点つけられそうな気がする。でも、それほど単純な話ではない。『I』と『II』の相互関係こそが、このシリーズの最大の魅力だからだ。

『I』と『II』の相互関係こそが、このシリーズの最大の魅力。

ときは1986年11月29日、舞台は横須賀。主人公の芭月涼の18歳の誕生日に、目の前で父・巌が殺害されてしまう。殺したのは、家の道場に突如現れた藍帝という、謎の拳法を使う中国人で、彼は巌の命だけでなく、龍の模様の石鏡も奪った。涼は仇討ちを誓い、プレイヤーは藍帝の後を追うこととなる。そうして、父親が殺害された理由や、石鏡に隠された意味という2つのミステリーを巡る壮大な冒険が始まる。そして、そのいずれも解き明かされぬまま、シリーズは未完のゲームとして歴史に残った。


開発当初は11章から構成されていた『シェンムー』だが、位置づけとして第1章が綴られる『I』は序章のようなもので、『II』で物語は初めて本格的に動き出す。日本を離れ、香港や中国で武術の修行に励みながら藍帝のありかを探す『II』は、旅立ちまでの日本での日常が描かれる『I』よりずっと刺激的だ。しかし、『I』の日常があればこそ、異国がこれほど遠く、これほど不思議に見える。

JRPGと比較してみよう。『DQIII』の冒頭で主人公は16歳の誕生日を迎え、父・オルテガの意志を受け継いで旅立つ。ほんの10分足らずで、プレイヤーは酒場で見つけた仲間と壮大な平原や暗い洞窟を探検してモンスターと戦い、新しい村や街を旅していく。『DQIII』風に言えば、『シェンムーI』は16歳の誕生日を迎える前の勇者の故郷での日常についてのゲームだ。退屈に聞こえるのかもしれないし、実際にそう感じてしまう人もいるだろう。しかし、ここにシェンムーの妙がある。『I』で味わった涼の日常があるからこそ、『II』の旅には他のゲームでは味わえないリアリティがある。我々は普段、ゲームで冒険しているときに、操作しているヒーローが以前にどんな日常を送っていたのかあまり考えない。しかし、涼として香港という見知らぬ大都会を放浪しているとき、ふと魚屋の信吉おじさんの顔が思い浮かぶし、薄汚い宿の部屋に入ると、これまでに実家で世話してくれた家政婦の稲さんに対するありがたみを覚える。


この異国で旅している感覚は、『I』をプレイしていない人でもある程度味わうことができる。ゲームの序盤でバックパックを背負っているし、香港の人々は涼を日本人扱いすることによって、自分は異邦人なのだと感じ取っていく。しかし、『I』で「あら、涼ちゃん!」と近所のおばさんに挨拶され、駄菓子屋で子供の頃のあだ名で呼ばれた人ならば、その感覚はさらに拡張される。昨今の便利なゲームのように日本にファストトラベルして戻ることもできない。おまけに舞台は80年代なので、インターネットやスマホで気軽に連絡もとれない。涼は新しい環境で本当にひとりぼっちなのだし、だからこそ新しい仲間との出会いは心強い。

当時、冒険したく仕方がない僕は完全に涼の味方だったが、今プレイすると稲さんに同情して親心も湧いてしまう。

涼の未熟さも、この設定の中で高度に機能している。向こう見ずで、無計画で行動する涼を見守っているとハラハラする。涼は『I』で心配しくれる稲さんに嘘までつこうとして旅立った。「芭月家の男子に危険を避けて通れなどと、どうして私などが言えたのでしょう」と稲さんは言ってくれるが、涼のことを自分の息子のように心配している。そういう意味でもまた、幼い涼の旅は『I』によってさらに感慨深いものになっている。当時、冒険したく仕方がない僕は完全に涼の味方だったが、今プレイすると稲さんに同情して親心も湧いてしまう。

「若者の成長」はすべての芸術作品やエンターテイメントにおいて永遠のテーマと言えるだろう。しかし、『シェンムー』ほどそれに成功したゲームは知らない。成長を描くのに、主人公は物語の冒頭でまだ未熟でなければならない。当たり前のように聞こえるが、これを見落としているゲームが意外と多いのではないか。主人公=ヒーローのような存在となりがちなゲームにおいて、最初から人格が出来上がっているキャラクターが多い。


ここで生きてくるのがバトルだ。涼は芭月流柔術という架空の日本武術の跡継ぎだ。しかし、中国に旅立ち、旅先でさまざまな師匠から技を教わると彼の格闘スタイルは徐々に変化する。バトルシステムは『バーチャファイター』のエンジンで稼働しているが、1対復数にもなることが1番の違いだ。『I』で涼は道場や公園に駐車場などで技の修練を行うことができ、同じ技を何度も繰り返して入力すると上達し、技によっては見た目まで変わる。新しい技も教わっていく涼は、人間としてだけでなく、格闘家としても成長していくことを実感させられる。香港では1発も当たらない師匠がいたり、荒削りな闘い方を指摘されたり、武術家が持つべき心構えについても教えられる。

根はいいやつだが、涼は倫理的に疑問に思っても仕方のない行動をしばしばとるし、人に対する思いやりも足りない。ところが、『II』の終盤では闘いの中で師匠の教えを実践しているところが見られ、新しく出会った人物ともより親切に接している。「成長」というテーマは、ストーリーとゲームプレイのブレンドによって体感させられると、説得力がある。


バトルだけでなく、他にも涼の成長過程を描くイベントは多々ある。例えば寺でのご奉仕。涼は毎日、正午まで寺で本の虫干しをしなければならず、最初はため息をこぼしながらこなしている。そして、ため息をこぼすのは涼だけではなく、プレイヤーでもある。本当に毎日、本の山を運ぶだけのゲームプレイが約10分くらい続くからだ。遊びとしてはまったく面白くないが、「退屈な奉仕に耐える」ロールプレイができる。割愛せずに、退屈な時間を意図的に盛り込むのは勇気の入る選択だが、だからこそストーリーが生きてくる。

退屈な遊びを意図的に盛り込むことでストーリーが生きてくる。

『I』のフォークリフトの運転もしかりだ。通常のゲームで主人公がアルバイトをするという設定ならそれは楽しさ前提のミニゲームとして盛り込まれるはずだが、『シェンムー』では「労働」の退屈な面や職場に縛られる感覚が再現されている。たくさんの箱を1つの場所から特定の倉庫まで運ぶわけだが、何度も同じルートを辿ることになるし、仕事の時間は決まっているので、飽きるとやめていいわけではない。お金はたくさん入るようになるが、使う時間がなくなってしまうという、普通はまずゲームにしようと思わないような労働感が作り出されている。

 


僕のようなリアリティ好きでもなければ、意図的な退屈さはあまり魅力的に聞こえないかもしれない。しかし、それを経験した先にある感動に辿り着けば、僕が本作を「ゲームの史上最高傑作」と今でも信じて疑わない理由が見えてくるだろう。賛成するかどうかは別として。

「日常」をたっぷりと体験させられた上、その先にある「非日常」の説得力も増していく。

日本の商店街や住宅街という日本人なら見覚えのある風景とそこで生活する人々が忠実に再現されているからこそ、香港や中国を旅している設定が生きてくるのと同じように、「日常」をたっぷりと体験させられた上、その先にある「非日常」の説得力も増していく。桂林の洞窟の中で焚き火を集めていると、ふと「達也くんは今頃、どうしているのかな?」と思ってしまう。神秘性あふれる冒険が進行している一方で、同じ時間軸で今日も近藤さんはフォークリフトを運転していることが頭をよぎる。


『シェンムー』の操作性は当時からぎこちなく、時間をスキップできないシステムに問題があることも最初からわかっていた。NPCのポップアップは相変わらず興ざめするし、テクスチャを貼り付けただけの顔は見ていてさらに違和感を覚えるようになった。バトル中のカメラもどうにかしてほしいし、QTEは演出がカッコよくても昔のように鵜呑みに出来ない。だが、どれも体験を阻害するほどではないし、オープンワールドのデザインが定着しつつある今、まったく違ったビジョンからアプローチした『シェンムー』はスペックで劣っても不思議な魅力を放っている。まるで老人の功夫達人のように、見た目で判断してはいけないゲームなのだ。

移植の質について


『シェンムー』は人を選ぶ傑作だ。しかし、再リリースでもう少し微調整が施されていれば、すべての人に推奨できる傑作になっていたかもしれない。

『シェンムーI&II』が4月のセガフェスで発表される少し前、僕は「リマスターが出れば改善した方が良い11箇条」という記事を出した。僕は現実的に「修正可能」と思えるものに絞って書いたのだが、果たしてどれくらい適応されているのか? 箇条書きで答えよう。

・1箇条目「ロード時間の短縮」○

・2箇条目「ビジュアルアップ」△(ゲームが1080pになり、ワイドスクリーン・HDレンダリングでプレイできるようになった。しかし、YouTubeで公開されているドリームキャスト版との比較動画を見てもわかるように、大差はない)

・3箇条目「NPCが消えないようにし、フレームレートを安定させる」X(キャラクターのポップアップは当時より少しましになった程度で、30FPSは完全に固定できていない)

・4箇条目「現代のスタンダードに合わせた操作系」☓(操作系は基本的に原作と同じ。『I』でも移動の操作をアナログスティックでできるようになっただけだ。しかし、アナログスティックで操作するとカメラが一緒に動いて3D酔いしやすい)

・第5箇条目「修行システムを改善」☓(投げ技の練習に必須である福さんとの手合わせをいつでもできるようにしてほしかった。熟練度がはるかに上がりやすくなり、技は時間の経過とともに自然と上達したようにすら感じた。涼の武術の成長過程はより実感しづらくなっているが、カジュアルに遊ぶ分にはさして気にならないはずだ)

・第6箇条「買い物などのスピードアップ」☓

リーダーボードが復活していないのは残念だ。

・第7箇条「『I』でも時間をスキップする機能を追加」☓

・第8箇条「セーブシステムは「II」に統一」○

・第9箇条「エリア移動の制限を一部なくすこと」これは主に距離的に近い香港島と九龍城を指しているが、今思えばかなりハードルの高い要望なのでなかったことにしよう。

・第10箇条「フォトモード機能を追加」△(『II』にのみ収録されている)

・第11箇条「『シェンムーパスポート』の復活」☓

「シェンムーパスポート」にはバトルやミニゲームのリーダーボードもあったので、こちらはとても残念だ。そのまま移植することが不可能だったとしても、リーダーボードを新たに作っても良かったのではないか。今の時代、それほど大変なことだとは思えない。


10箇条中4点と、まずまずだ。しかし、問題は他にもある。

「バグを懸念して遊ばない」ほど深刻な問題はもうない。

『シェンムーI&II』が8月に海外でリリースされた当初、バグや不具合があまりにも多かった。それから3カ月経過して、日本版ではその大半が解消されている。少なくとも、「バグを懸念して遊ばない」ほど深刻な問題はもうない。とはいえ、目に見えない透明のガチャガチャに涼が「これは!」と驚くときは興醒めるし、買い物の後に所有金のUI表示が出たままになってしまうときも1度あった。フォークリフトはドリームキャスト版ではそうならなかったところで引っかかるし、NPCも涼に邪魔されるとオリジナルよりバギーな反応をするところが見受けられる。

サウンド面もやや違和感を覚える場面や、たまに省略される環境音が残っている。とはいえ、シェンムーマニアでないと気づかないところまで改善されている。

『I』のバトルで気になったのは、投げ技などで敵を巻き込むことができなくなっているらしい点だ。『シェンムー』は1人の敵を抑えたまま、別の敵を蹴るといった技もあるが、何度試しても『I』ではどうしても当たらない。『II』ではそのまま当たり、オリジナルと同じなのに。

全体手的に『I』の移植レベルは『II』に劣る。『II』は海外ですでにXbox向けに移植されたことがあり、今回の再リリースもXbox版をベースに移植している。ドリームキャストから移植した『I』は大変だったと聞くし、そもそも『I』のソースコードも『II』に比べればめちゃくちゃだったのだろう。だが、商品として提供する以上、そういった開発側の事情は通用しない。

例えば、イベントシーンをスキップする機能が新たに導入されたが、『I』ではなぜかOPでしかできないのに対して、『II』ではすべてのシーンをスキップできる。スキップできないことが問題というよりも、OPでできると思わせておいて、その後になくなるという統一されていない状態が「完成された製品」に見えない。Xbox版で追加されたフォトモードも、ゲーム中にかけられるフィルターも『I』にはない。別々のバージョンを移植しているので仕方ないのかもしれないが、同じパッケージで販売する2作としてはあまりにも機能が違いすぎる。

『シェンムーI&II』には逆輸入版特有の問題もある。

ちなみに『I』もドリームキャスト海外版を元にした移植なので、『シェンムーI&II』には逆輸入版特有の問題もある。日本の住宅街で家主の名前が書いてある懐かしい地図になぜか英語表記があるし、『II』の一部の環境音や戦っているときの敵の声は英語になっている。特にある隠しキャラとのバトルで気合いや技の掛け声が英語になっており、オリジナル版を知っている人は違和感を覚えるだろう。また、日本人の名前に馴染みのない外国人が書いたからか、エンドロールも一部スペルミスが見受けられる。しかし、「逆輸入部門」で何よりも大きな問題は会話の途中に発生する無気味な「間」だろう。英語版にならっているからか、会話のスピードがオリジナルと違い、キャラクター同士が数秒無言で見つめ合ったり、逆に不自然な早さで次の台詞に入ったりする。人との会話が重要なゲームにおいて、リズムが崩されるのはあまり歓迎すべきところではない。


最後に、トロフィーについて。移植である以上、トロフィーが唯一の新鮮な要素となるが、いつもと同じプレイスタイルでも簡単にプラチナトロフィーがとれるものとなっている。隠し要素も豊富なゲームであるだけに、ここはもう少し凝ったものに期待したかった。しかし、何よりも許しがたいのは、トロフィー名や説明内容にゲームの重大なネタバレが平気で書かれていることだ。ストーリーを進めば自然と手に入るトロフィーだからせめて隠しトロフィーにしてくれよ、とファンとして怒りが込み上がる。

いちいち細かいところをついているうるさいファンに聞こえるかもしれない。しかし、小さな問題が重なった結果、オリジナルと再リリースを両方プレイできる環境にある人に、どちらを推奨するか迷う。ロードが早くなったころや1080pでの探索は快適だが、まだまだ粗の目立つ移植であることに変わりはない。

長所

  • 神秘性あふれる物語
  • ゲームで旅ができる
  • 日常とミステリーのバランス
  • 成長要素の豊富なバトル

短所

  • まだまだ問題点の多い移植
  • 逆輸入特有の粗

総評

移植の粗が目立つとはいえ、ゲーム史に残るべき古典をPS4で気軽にプレイできるようになったことは喜ばしい。頻繁にオープンワールドの元祖と言われる本作がだ、ウォーキングシミュレーターや雰囲気ゲーなど、さまざまなジャンルや流行を先取りした20年早すぎた傑作だ。操作性やシステム上の癖に目をつぶることができれば、他では味わえない感動が待ち受けている。

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  • Platform / Topic
  • PS4

『シェンムーI&II』レビュー、人を選ぶ傑作

8
Great
『シェンムーI&II』は人を選ぶ傑作だ。移植が原作の問題点の微調整を行っていれば、人を選ばない傑作にもなり得たのだが……。
シェンムーI&II
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