ピラミッド型やフラット型は欧米中心だと書いたが、この欧米とは、実際は、「欧米人」という人間を中心に考えている。しかしながら、我々が直面している「リゾーム化社会」とは、IoTが「モノのインターネット」と言われるように、ヒトもモノも、そして、コトも、差別することなく、巻き込んでいく。ーー有園雄一氏による寄稿コラム。
本記事は、電通総研 カウンセル兼フェロー/電通デジタル 客員エグゼクティブコンサルタント/アタラ合同会社 フェロー/zonari合同会社 代表執行役社長、有園雄一氏による寄稿コラムとなります。
卒業間近になると別れ話を切り出すカップルも多いだろう。お互いの進路が異なるとか、卒業後に海外に行くことになったとか、さまざまな理由で。あるいは、卒業を別れのチャンスと前向きにみるケースもある。20年以上前だが、Middlebury Institute of International Studies at Monterey(略称、MIIS)という大学院に、私は在籍していた。そこで、こんなジョークを耳にした。
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「お別れしないといけない。国務省(Department of State)に就職が決まったんだ」
「え、どういうこと?」
「それ以上は言えない。国家機密に抵触するから」(笑)
このジョークは、CIA(Central Intelligence Agency:アメリカ中央情報局)に就職が決まった人の話。本当かどうかは知らないが、CIAに就職することを公にしてはならず、表向きは国務省での採用となるらしい。そして、CIAの職員は外国人との結婚は許されていないらしく、外国人と付き合っている場合、別れることが条件だという都市伝説がこのジョークの背景だ(最近ではルールが変わったとも聞いた)。
この都市伝説の真偽は別として、別れる理由が「国家機密」というのが面白い。
MIISという大学院は、噂では設立にCIAが関与したらしく、国際政治・経済、外交や国際政策などを専門とする。私が在籍していたときも、元CIA高官や米国政府関係者を少なからず、教授陣に抱えていた。当然、卒業生のなかには政府機関や国際機関に就職する人がいたし、CIAに就職する人もいたようだ(国務省に就職するという友人はいた)。
MIISは海外からの留学生が多く、記憶では、学生の40%ほどは外国人(アメリカ人以外)だった。当然、アメリカ人と付き合っている日本人の学生もいて、「どうする? 彼から国務省に就職したいって言われたら?」と冗談を言ったりしていた。
アメリカ中央情報局
アメリカ中央情報局(CIA)、名前の通り、国家の中央で情報を管理し、海外での諜報活動を行うアメリカの情報機関。その役割から多言語を自由に操り、外国人の知人も多く、幅広い知識を持つ人が多いはず。しかし、中央で情報をコントロールしたいからこそ、外部にいる人間(外国人)に情報が漏れるリスクを排除したい。外国人との結婚が制限されるのは自然な気がする。
CIAの「Central Intelligence」に対して、「Decentralized Intelligence」という思想やシステムが大きな影響力を持つようになってきた。インターネットが、そもそも、分散的(Distributed)で非中央集権的な(Decentralized)知の在り方なので、その利便性を体感している現代人には詳しい説明はいらないと思う。インターネットの前身であるARPANET自体が、アメリカ国防総省の高等研究計画局が資金を提供したプロジェクト。国家的軍事的に重要な情報が一箇所に集中していると核戦争などの非常時にリスクがある。それを回避するため、分散的なネットワークの情報管理を目指したという説もある。1カ所に集中していると、そこが壊滅的な打撃を受けた場合に、立ち直れなくなる。ひとつに集中させるのではなく、たくさんの場所に情報を分散させて管理した方が「レジリエンス(Resilience):回復力、復元力」が高いのだ。
2013年のエドワード・スノーデンの事件でも明らかになったように、アメリカ政府はCIAなどの諜報活動を通じて、ほぼ全世界でインターネットと電話回線を傍受し、その活動にはGoogleやFacebookなど大手IT企業が協力させられていた。
ただ、皮肉なことだが、アメリカ政府が資金を提供して誕生したインターネットなのに、そこに流通する情報を政府の力だけで収集するのは困難になった。つまり、GoogleやFacebookなど第三者の協力を必要とする。非中央集権的で分散したネットワークのなかを情報が自由に往来してしまう。それは、近代国家の中央集権的な情報コントロールの枠組みが崩壊してしまったことを意味する。分散的で非中央集権的なネットワークのなかで、CIAは、一生懸命に「Central Intelligence」を行っている。でも、その活動は、インターネット以前の世界と同じようにはいかない。
スノーデンの苦悩
先のアメリカ大統領選がフェイクニュースの影響を受けたという話は記憶に新しい。たとえば、「マケドニア番外地 潜入、世界を動かした『フェイクニュース』工場へ」という記事によると、「この人口55,000人のマケドニアの町から100以上ものトランプ支持サイトが発信されていたことが『ガーディアン』や『BuzzFeed』の報道により明らかになったのである。その多くは嘘八百のフェイクニュースサイトだった」とのことだ。
マケドニアのフェイクニュース工場の話は、現代の覇権国家・アメリカであっても、情報をコントロールすることができず、アメリカの民主主義の基盤である大統領選挙ですら、健全に実施することができなかった(かもしれない)ことを示唆している。
ある意味で、国家の存立基盤を揺るがしたのだ。インターネットの登場は、情報管理の戦略、そして、権力基盤の存在様式を変えた可能性がある。「あの大統領選挙は、信頼できるものだったのか? 我々は信頼できる選挙の結果、信用できる大統領を選んだのか?」と、アメリカ人の友人が嘆いていた。
エドワード・スノーデンは、政治的には個人の自由をもっとも重視するリバタリアンだったらしい。もし、そうだったとすると、文字通り、Wrong Person, Wrong Place(間違った人が間違った場所にいる)だった。スノーデンは耐えられなかったようだ。CIAという官僚機構は、当然ながら、国家主義(Statism)や権威主義(Authoritarianism)の総本山みたいなものだ。おそらく、息苦しかったに違いない。
ただ、国家権力とは、そのような息苦しさを本質とする。個人の自由を重視するリバタリアニズム(Libertarianism)とは相容れない。
パノプティコンの思想
フランスの思想家、ミッシェル・フーコーは、『監獄の誕生―監視と処罰』(新潮社 1977)で、国家権力の集中機構としての監獄を論じ、歴史的背景の考察に基づき、その特徴と本質を抽出した。ジョージ・オーウェルが『1984』で描いたことで有名になった「パノプティコン」(一望監視施設、全展望監視システム)を例に、フーコーは、中央で情報をコントロールし、人を監視する国家権力の本質を論じた(ちなみに、パノプティコンは、イギリスの功利主義者ジェレミ・ベンサムが考案したらしい:ウィキペディア参考)。
「ベンサムの考えついたパノプティコン<一望監視施設>は、(中略)周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円環状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで十分である。周囲の建物の独房内に捕らえられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。」(『監獄の誕生―監視と処罰』p202)
CIAが通信を傍受して、世の人々を監視しようとする。その本質は、このパノプティコンの思想に見事に表現されている。国家権力は、パノプティコンのような監視装置を必要とする。それが、インターネットという中心のないシステム、つまり、分散的で非中央集権的な環境では、機能しなくなる、あるいは、弱体化するのだ。
フラット化する世界
いま、中国でも政府によるインターネットを通じた監視、及び、その情報に基づく個人の評価経済が普及している。だが、これも、アリババ(阿里巴巴)やテンセント(騰訊)など大手ベンダーが過半のマーケットシェアを持つから成り立っている。つまりは、データを保有している第三者の強力なしでは、政府による監視社会は成立しない。
国家や軍隊、企業組織など、中央集権的な組織は、その形態からピラミッド型と言われる。政治や企業組織に限らず、ローマ・カトリックやオウム真理教など宗教組織も旧来型のピラミッド型だ。情報管理や指揮命令系統、組織構造などピラミッド型の図をよく目にする。
トーマス・フリードマンは『フラット化する世界』(日本経済新聞社 2006)で、デジタル化とグローバリゼーションによって、先進国と発展途上国のあいだにあった垣根が崩壊し、それに伴って、インドや中国が台頭、特にビジネスの領域においては、世界がフラットになったと論じた。これは、以前は、欧米が世界の中心で、ピラミッドの頂点を支配していたのに、それが崩れつつあり、パラダイムシフトが起こっている、ということだろう。
ところで、インド人の知人が「フラット化する世界(The World is Flat)という言い方は、欧米中心の考え方で差別的だ」と話していた。インド人から見れば、「The World is coming back」だ、と。つまり、「大航海時代以前、世界の中心は、インドや中国で我々がピラミッドの頂点だった」と。その認識が正しいかどうかは別として、欧米を中心、あるいは、ピラミッドの頂点に位置付けて、アジアやアフリカなどを周辺、あるいは、底辺に位置付けた価値観を、欧米人が持っていると言いたいようだ。
社会の「リゾーム化」
欧米中心のピラミッド型やフラット型の世界観。インド人の知人が感じたように、それに違和感を感じる人も多いだろう。私は、MarkeZineで「リゾームマーケティングの時代」という連載も執筆しているのだが、そこでは、デジタル化やIoT化によって、世界は中心のない非中央集権的で分散型の「リゾーム」モデルに変化していると論じている。
ピラミッドに中心や頂点があるのはいうまでもないが、パノプティコンの模式図をみてわかるように、フラット型であっても中心が存在する。
それに対して、「リゾーム」モデルには中心が存在しない。これは、フランスの思想家、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが『千のプラトー ― 資本主義と分裂症』(河出書房新社 1994)で提示した概念だ。2007年の「初代iPhone」の登場、そして、サトシ・ナカモトがブロックチェーンによるビットコインの開発に着手したのも2007年。この年を境にして、DAO(Decentralized Autonomous Organization/Distributed Autonomous Organization)という組織形態が注目されるようになった。2007年以降、我々の社会は「リゾーム化社会」という色彩を強くしている。繰り返しだが、「リゾーム」とは、分散的(Distributed)で非中央集権的な(Decentralized)なシステムで、個々の要素<ノード>が接続した(Connected)モデルのことだ。
ピラミッド型やフラット型は欧米中心だと書いたが、この欧米とは、実際は、「欧米人」という人間を中心に考えている。つまり、ある意味で、人間中心主義なのだ。ピラミッドの頂点にいるのは人間であり、動物やモノは人間に従い奉仕する役割として神が与えし存在と捉える。本質的に、世界は人間のためにあり、他の生物やモノは周辺であり底辺に位置するという発想がある。
しかしながら、我々が直面している「リゾーム化社会」とは、IoT(Internet of Things)が「モノのインターネット」と言われるように、ヒトもモノも、そして、コトも、差別することなく、巻き込んでいく。
アニミズム的思考
つまり、西洋的な人間中心主義からの脱却でもある。東洋的な人間以外のモノや生物をも尊重し崇拝するような思考、アニミズムのように、すべての物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考へと回帰している可能性もある。
たとえば、AIやアルゴリズムを信じるという思想を頻繁にみるようになった。レイチェル・ボッツマンは、『TRUST 世界最先端の企業はいかに〈信頼〉を攻略したか』(日経BP社 2018)のなかで、政府や企業、マスコミへの不信感が世界中で強くなり、従来の制度や組織の信頼が危機に瀕していると指摘した。そのうえで、「さらにこの危機は、人口知能(AI)、自動化、もののインターネット(IoT)といったテクノロジーが急速に進化を遂げる時代に起きている。日常生活のなかで、わたしたちはすでに人間よりもアルゴリズムに信頼を置いている。何を読むべきかをアマゾンに、何を見たらいいかをネットフリックスに教えてもらっている。これはまだはじまりにすぎない。自動運転車に乗り、テクノロジーの見えざる手に命を預ける日は遠くない」と書いている。我々は、ヒトよりもモノ(アルゴリズム)を信頼しはじめているとの指摘だ。
元ソフトバンク・モバイル副社長の松本徹三氏は、『AIが神になる日』(SBクリエイティブ 2017)の「はじめに」で以下のように主張している。
「こうして私たち自身が作り上げたAIを、私たち自身が自分たちの新しい『神』として受け入れ、私たちの将来を完全に委ねるべきだと、私は考えています。そうすることだけが、不完全な『人間という存在』として生まれてきた私たちが、今後とも自由に、そして心豊かに生き続けていく唯一の道だと確信しているからです」。
これは、脱人間中心主義と捉えてもいいし、AI中心主義と考えてもいい。まるで、AIに霊魂や精神が宿ると考えているかのようで、一般的には、違和感があるかもしれない。しかし、すべての物に神の存在を見るアニミズムのような立場の人々には、自然な発想かもしれない。
「テクニウム」の台頭
私は、5月後半から6月初めにかけてエストニアに出張した。エストニアは電子政府で世界最先端だと聞いたからだ。この電子政府における権力や信頼の在り方には、松本徹三氏がいうAIを神として受け入れる思想が垣間見える。たとえば、WIRED(ワイアード)元日本版編集長の若林惠氏は、『さよなら未来』(岩波書店 2018)のなかで、次のようい書いている。
「官僚機構というのは、そこに人が介在する限りにおいてどうしたって『コラプト=腐敗』するものであるという、おそらくはソビエト連邦時代に得たと思われる教訓こそが、「人を信頼せずとも『信頼』を担保することが可能なシステム」へと彼らをドライブしている。政府の元CIDが、「AIを内閣に入れるべきだと思う」というとき、彼らの「信頼」がどこへ向けられているのかは明らかだ。そして、そうであるがゆえに、エストニアとブロックチェーンの相性の良さも明らかとなる」(p441)。
このような流れが、西洋的な人間中心主義からの脱却なのは明らかだと思う。それは、人間よりもコンピュータのアルゴリズムを信じる、あるいは、AIを神として受け入れ、私たちの将来を完全に委ねるという思想。人間が作った人工的なモノでありながらも、人間から独立し、そして、超越するような自律的なモノ。そのような自律性を備えつつあるテクノロジー全体を信仰しようという思想が拡大しつつある、と私は感じている。
米WIRED創刊編集長のケヴィン・ケリーは、このような自律性を持ったテクノロジーを「テクニウム」と名付けた。たとえば、著書『テクニウム―テクノロジーはどこへ向かうのか?』で、次のように書いている。
「ここ1万年の遅々としたテクノロジーの進化があった後に、ここ200年で信じられないほど複雑な脱皮が起こった結果、テクニウムは自らあるべき方向に成熟している。自己強化の過程や各部を支えているネットワークは、明らかに自律性を与えている。以前に古いコンピューターのプログラムのように単純だったときは、言われたことだけをオウム返しで行っていたが、いまでは非常に複雑な有機体となってたびたび自らの衝動に従っている」。
私には、人間中心主義からAI中心主義へ、世の中が変化していると見えている。それは、情報の在り方を変え、CIA的な「Central Intelligence」に対して「Decentralized Intelligence」というブロックチェーン的な知の存在様式に変化している。そして、それに伴って、情報を収集し監視する国家の在り方も変化している。さらに、構造としては、社会が「リゾーム化」しているのであって、そこで支配的な思想としては、「テクニウム」の台頭として表現できると思う。
もし、デジタルシフトを一言で表現しろと言われたら、私は、「テクニウム」の台頭である、と答えるだろう。
この「テクニウム」の台頭と社会の「リゾーム化」が、レイチェル・ボッツマンが言うような既成の組織(政府や企業、マスコミ)への不信感の原因ではないか。私には、そのように思えてならない。そして、そのような既存のマスコミや組織への信頼性を、今後、担保して行くには、どのようにしていくべきなのか。世界に突き付けられた焦眉の課題だと思う。
Written by 有園雄一
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