土左日記_定家臨模

『土左日記』のよくある誤解まとめ

「『土佐日記』は、紀貫之が女になりきって書いた日記である」

 ――というのはよく言われることで、だから貫之が「日本最古のネカマ」と称されることもあるのだが、少なくとも作品を読むかぎり、ここにはいくつかの誤解が含まれている。
 誤解のポイントは次の3つ。

  ①貫之は女になりきって書いてない

  ②日記じゃない

  ③タイトルは『土佐日記』じゃない

 全問不正解かよ。

 そこで、このnoteでは『土左日記』のよくある誤解について、それがどうして誤解と言えるのか、理由とともに簡単に説明していく。
 ただ注意しておきたいのは、これはあくまでも、さほど読まれないままイメージばかりが広く流布しているこの作品を紹介するための記事だということ。
 『土左日記』について面白く広めようとして語っている人の間違いを糾弾するとか、ましてや語るのをやめさせるとか、そういう目的は一切ないし、もしこの記事が『土左日記』警察みたいな活動に使われることがあったらとても心外だ、ということをここに明記しておく。

 さて、紀貫之は、9世紀後半ごろに産まれた下級貴族。しかし和歌と文筆に優れ、貴族社会では身分は低いながら才能ある人物として重宝された。

 もっとも、文学で高い評価をもらったからといってそれだけで飯が食えるわけではない、というのは当時も今も同じだった。
 ましてや貫之の時代、和歌や物語などというのは文学の中でもさらに二流三流、女子供ならまだしも立派な男子が大真面目に打ち込むようなことではない、いくら楽しくってもお遊びでしょ? そんなことしてる暇があるならもっとちゃんと漢詩漢文を勉強なさいよ――という見方がまだまだ根強かった。
 今でいえば「アニメの作画で高い評価」とか「VRですごい美少女つくってる」くらいだろうか。その筋の方には大好評。

 平安時代の行政システムとして、選ばれた官僚は京を離れて地方役人(国司)として任官し、4年間その土地を治めて、任期を終えるとまた京に戻ってくる。貫之もそうだった。
 西暦930年~935年、年齢でいうとおよそ60歳ごろから5年間、土佐の守を勤めた。この後、土佐からの帰京の船旅に着想を得て『土左日記』を書いたらしい。

 作品は、ある年の12月21日、どこかの国で任期を終えた国司が、家族や部下たちを連れて旅立つところから始まる。
 主人公である女性は彼に仕える女房か、それとも彼の親戚筋か。立場はいまいちはっきりしないがとにかく一行についてともに出発し、京へ帰り着くまでの一か月半を書き記していく。

 つまり、『土左日記』の主人公(語り手)は貫之ではない。現実の貫之の位置にあたる「ある人」は語り手とは別人。
 そして①貫之は女になりきって書いてない。マンガでも小説でもアニメでも、作者と主人公の性別が違うことは不自然でもなんでもない。
 J.K.ローリングは女なのに魔法使いの少年になりきって学校生活の様子を書いたネナベだ、というようなもので、そんな主張するような人は、もしかしたらどこかにいるのかもしれないが私はちょっと見たことがない。

 『ハリー・ポッター』は完全なフィクションだから、日記とは話が違う? 
 しかし、②『土左日記』は日記ではない
 当時の「日記」は、子孫のために儀式や行事の記録を残す官人日記(うっかり儀式の先例を無視してポカをやらかすと貴族社会の村八分にされるから)なので、もちろんそれとはまったく違う。また現代のごくプライベートなものとも違う。
 日付が書かれてそれに沿って進む、日記形式をとった小説、といった方が実態に近い。
 実際に起こったことを一部もとにしてはいても、全体としてはあくまでフィクションだ。誰かにあてた手紙っぽく書かれる「書簡体小説」のいわば日記版。

 なぜフィクションと言い切れるかというと、研究の結果、『土左日記』のかなりの部分に虚構、つまり作り話が混ぜられているというのが分かってきているからだ。
 説明すると長くなるので詳しくは最後の参考文献を見てもらいたいが、たとえば現実の貫之にあたるはずのじいさんが、和歌とかまるっきり苦手な設定になってるとか。月がシチュエーションに合わせて都合よく出たり消えたりするとか。
 特に前者はひどい。だってお前紀貫之だぞ。最古の勅撰和歌集の撰者だぞ。日本って国では何が「美しい」のか、その後1000年近く民族の規範であり続けたんだぞ。貫之が歌を詠めば祟り神も心和み、病気の馬が立ち上がって元気に歩き出すレベルだぞ。

 船君の病者、もとよりこちごちしき人にて、かうやうの事さらに知らざりけり。
(この船の主をしてる病人は、もともと風流に縁のない堅物で、和歌を詠むとかいうことは少しも分からないのだ)

 羽生善治竜王が「ぼく将棋みたいな難しいことわかんない」と言うようなもので、もはやギャグ、むしろ一周回って何か途方もなく深遠な芸術的真理を感じさせるような気がしなくもないかもしれない。そんなことはない。

 だが、『土左日記』のもっとも大きな嘘は他にある。
 旅の途中、景色の美しいとある場所を船が通りかかったのだ。

 「ここやいどこ」と問ひければ、「土佐の泊」と言ひけり。昔、土左といひけるところに住みける女、この船にまじれりけり。そが言ひけらく、「昔しばしありし所のなくひにぞあなる。あはれ」と言ひて……
(「ここはどこです」と尋ねると、「土佐の泊」と答えがあった。昔、土左とかいうところに住んでいた女がこの船に乗っていた。その人が言うには、「昔しばらく滞在していた場所と同じ名前ですよ。なんだかしみじみする」と言って……)

 ちょっと待てや。
 お前らはどこから来たんだよ。「土左とかいうところに」じゃねえよ。「この船に乗っていた」ってさも意外そうに書いてんじゃねえ。なんで他人ごとみてえな顔してんだ一人残らず土佐帰りだろうが。
 そこで冒頭をよく読んでみよう。

 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。某年の十二月の二十日余一日の日の戌のときに門出す。その由、いささかにものに書きつく。
 ある人、県の四年五年はてて、例の事ども皆し終えて、解由など取りて、住む館より出でて、船に乗るべき所へ渡る。
(男もするという日記というものを、女もやってみようと思って書くのだ。ある年の12月21日、午後8時ごろに旅立ちをする。そのときのことを、少し書き記しておく。
 ある人が、地方勤務の四、五年の任期が終わって、恒例行事などもすべて済ませて、引継ぎの証明書も出してもらって、住んでいた館を出て、船に乗る場所へ渡った)

 わあ……土佐とは、一言も、書いてない……。

 そこではい、③タイトルは『土佐日記』じゃない『土左日記』である。
 つまりあれですね、和風ファンタジーとか近未来SFで旧国名をもじって名付けるみたいなやつですね。勘のいい読者ならタイトルを見ただけでフィクションだと了解するはずという……いやわかんねえよ……叙述トリックかよ……。国語の教科書見ろよ、誤字かなと思われて『土佐日記』に直されちゃってるじゃん……。

 以上、『土左日記』のよくある誤解についてまとめてきた。最後の③についてはもはや誤解というか、現代ではもうこれ『土佐日記』なんだと思った方がいいのかもしれないが、しかし作者の意図がそこにあるなら変えるのもなんだか気が引けるし。

 とはいえ、貫之が実際何を考えてこんな作品を作ったのかは謎だらけで、まだまだ研究が待たれるところだ。
 もしこの記事をきっかけに少しでも興味を持ってもらえたなら、ぜひ『土左日記』や『貫之集』、『古今和歌集』『新撰和歌』などにも触れてみてほしい。
 そうして貫之が再評価され、じわじわと人気が高まっていき、空前の『土左日記』ブームが到来、FGOに十二単の病弱ロリジジイ☆3[ライダー]紀貫之が実装される。実に楽しみなことである。


参考文献一覧

【書籍】

萩谷朴『土佐日記全注釈』角川書店、1967年
東原伸明『土左日記虚構論 初期散文文学の生成と国風文化』武蔵野書院、2015年

【論文】(オンラインで読めるものにはリンクを貼った)

木村正中「土佐日記の構造」『文芸研究』第10号、1963年3月
野村精一「虚構、または方法について――散文空間論への途」『国文学 解釈と鑑賞』44巻2号、1979年2月
比護隆界「土佐日記に見られる地名錯雑について――いわゆる「脚色虚構説」に駁す――」『文芸研究』第59号、1988年3月
萩谷朴「虚構と歪曲の作品『土佐日記』」『日本文学研究』39巻、2000年2月
斉藤国治「土佐日記の中の月出入記事の虚構」『天界』81巻903号、2000年8月
水谷隆「土佐日記の女性仮託という方法が意味するもの――その文学史的位置づけの再考に向けて」『文学史研究』56巻、2016年3月
・北島紬「土佐日記の歌論――人物描写という方法」『國文學』100巻、2016年3月

(2018.8.1追記)
 初稿に「「土左」というのはまったく架空の地名というわけでもなく、『日本書紀』あたりにあった「土佐」の古い表記だが、平安時代にはもうほとんど使われていない。200年近く時代が違う」と書いたが、これは誤りだと指摘をいただいた。平安中期まで用例があるらしい。確認したら確かにあった。知らなかった……!
 というわけで該当部分を削除してお詫びいたします。ありがとうございます。今後ともお気づきの点はどんどんご指摘ください。

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