ある個人に権力が集中し、それが「お友達」のために使われる。こうした「一強」と我田引水が過ぎれば、対抗勢力は人びとからの支持をより多く受けることになる。そうなれば権力者はそれまでの「おごり」を反省せざるをえなくなるし、場合によっては民意を味方につけた対抗勢力によって打倒されるということにもなる。
しかし、今日の日本では、政権党/野党というコードに基づいた緊張関係のロジックはまったく働いていない。
森友・加計学園問題で政権への不満や批判はそれなりに高いレベルに達している。しかしそれにもかかわらず、「野党」への支持は広がっていかない。それどころか逆に、そうした問題を指摘し、追及すればするほど、「野党」叩きの方が高まっていく状況にある。
「アクティブ・ラーニング」と野党ぎらい
野党があまりに「だらしない」から、野党の支持が低迷しているという説明が見落としていることがある。野党という存在やそれがそうせざるをえない振舞い方が嫌われているので、野党が何を言っても、何をしても嘲笑されるという連関である。
そしてこの「野党ぎらい」はコミュニケーションを過剰に重視する風潮と無関係ではない。「コミュ力」が高いとされるのは「野党」にならないように振舞うことができる人のことであり、会話の中で地雷を踏むことにビクビクしている人は「野党」の役回りに追い込まれることを全力で避けようとする。
近年、教員の一方的な知識提供ではなく、学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」が広がっている。基本的には肯定的に捉えてよいだろう。しかし、ここで行われるグループ・ワークは、メンバーの顔色、そしてその後ろにいる教員の顔色をうかがうことを強いる同調的なコミュニケーションを促進しているのではないかと思うこともある。
政党政治のロジックは、皆で仲良く建設的に「会話」することと同じではない。現在の「政治教育」では、「野党」の意義はむしろますます見えにくくなる。
政治家の感覚が庶民感覚からズレていることを問題にすることも、ときには大切である。しかし政治を身近なことに引きつけて「わかりやすく」論じようとするがあまり、自分たちのコミュニケーション・スタイルの基準でしか政治を論じられなくなっているとすれば、それも政党政治を閉塞させる。
「コミュ力」が賞賛される世界では、野党が野党であることで評価してもらえる可能性はない。
違いや軋轢を避けたり、笑いにしたりするのではなく、その対抗性をそれなりに真面目に引き受けること。相手の批判に腹を立てても、それなりにそれと向き合うこと。こうした可能性の乏しいコミュニケーションは同調過剰になり、表層的になり、深まらず、退屈で、そして疲れる。
いまの政局の行詰まり感は、「コミュ力」のユートピアが政党政治の世界に投影された結果の成れの果てではないか。