琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】映画を撮りながら考えたこと ☆☆☆☆☆

映画を撮りながら考えたこと

映画を撮りながら考えたこと

内容紹介
『誰も知らない』『そして父になる』『海街diary』『海よりもまだ深く』…

全作品を振り返り、探った、
「この時代に表現しつづける」
その方法と技術、困難、そして可能性。

構想8年の決定版

映画は百年の歴史をその大河にたたえながら悠々と僕の前を流れていた。(中略)「すべての映画は撮られてしまった」というような言説がまことしやかに語られていた八〇年代に青春期を送った人間にとっては、今自分がつくっているものがはたして本当に映画なのか? という疑いが常にある。しかし、そんな「うしろめたさ」も、そして血のつながりも越えて、素直にその河の一滴になりたいと僕は思ったのだ。 ――「あとがきのようなまえがき」より


 『万引き家族』がカンヌ映画祭パルム・ドール(最高賞)に輝き、日本でも大ヒット中の是枝裕和監督が、2016年6月に上梓した本です。
 最近、書店に平積みされていたのを見かけて購入したのですが、『三度目の殺人』『万引き家族』の公開前に書かれたものなので、これらの作品については触れられていません。
 だからこそ、平常時の是枝監督の映画作りの心構え、みたいなものが語られていえうようにも感じます。


 是枝監督は、この本の「まえがき」で、こんな話をされています。

 テレビに関して言えば、僕が二十七年間という長きにわたって在籍したテレビマンユニオンの創立メンバーたちが、60年代にTBSを舞台につくっていた番組群への憧れが強い。テレビそのものを問うような、そんな果敢な実験の時代がすっかり終わった80年代に、僕は遅れてテレビにやってきた。
 だからこそ興味深そうに僕の話に耳を傾けてくれるライターの堀さんやミシマ社の三島さん、星野さんを前にして、僕のようなつくり手が経験していない歴史と、その歴史のあとを語ることに、はたして意味があるのだろうか? と戸惑い、申し訳なく思うことが多かった。
 ただし、今こうしてテレビマンユニオンを離れてみて、制作者としての自分のDNAに深く刻まれている「テレビ」について語ること、自分の出自とそこに刻まれた名前への愛を語ることは、少なくとも僕にとっては必要かもしれないと思い直したわけである。次に進むために。
 映画に関しては、さらに躊躇があったし、今も、ある。それは他人から指摘されるまでもなく、僕自身が生粋の映画人ではないという自覚があるからにほかならない。
 僕が語っている映画言語は、間違いなく映画を母国語とするネイティヴなつくり手のそれとは違って、テレビ訛りのある「ブロークン」な言葉である。育ててもらった恩義も含めて「テレビ人」であることは素直に受け入れられるし、その置かれている状況に責任も感じているから、請われれば発言もする。しかし、映画に対してはどこか遠慮があった。
 だからここに語り記していくことは、映画監督としてではなく、テレビディレクターである自分が自作を通して行う現在の映画づくりや映画祭についての、内側からのルポルタージュにしようと当初は思っていた。
 そのような目論見は、思った以上に成功したのではないかと自負している。


 僕にとっての是枝裕和さんは、「映画監督」のイメージがあるのです。
 だからこそ、テレビで連続ドラマ『ゴーイング マイ ホーム』が放映されたときには、「あの映画監督の是枝さんが、テレビドラマを撮るのか」と思ったんですよね。
 この本を読んでいくと、是枝監督は、もともとテレビドキュメンタリーを主戦場にしていた人で、その延長で(あるいは、テレビでは是枝監督が撮りたいドキュメンタリーを撮ることが難しくなったため)、映画をつくるようになっていったということがわかります。
 『万引き家族』が、フィクションであるにもかかわらず、「万引きを肯定するのか!」という批判にさらされているのをみると、是枝監督の作品は、監督が意識している以上に「ドキュメンタリー的」に観られているのだな、と感じるんですよね。
 『ルパン三世』に「泥棒を肯定するのか!」と怒る人は見たことがありませんし、『狐狼の血』で残酷な殺戮や拷問のシーンがあっても、「暴力を描くな!」という批判は目立ちません。
 「実際にこういう人々が社会の見えづらいところに存在しているのだ」という是枝監督のメッセージが込められているという背景はあるとしても、ここまで反発する人がいることは、僕にとって意外でした。


 カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得したことで、海外に日本の恥をさらした、などと考える人もいるのかもしれませんが、こういう現実が存在している以上、問題提起をするのは日本という国にとっても大事なことのはずです。
 「国の暗部(を題材にしたもの)を他所に見せるな」って、北朝鮮じゃあるまいし。


 映画祭についても、この本を読むと、是枝監督は、「海外で評価されることを重視し、日本を軽視している」わけではないことがわかります。
 是枝監督が撮っているような「地味なドキュメンタリー的な映画」は、「海外の映画祭で絶賛された」というような看板がないと、日本で大規模に公開されるのは難しく、お客さんも来てくれない、という現実があるのです。
 だから、海外の映画祭への挑戦というのは「プロモーション」のためにやり続けている、という一面もある。
 是枝監督は、この本のなかで、「海外の映画祭のランク付け」にも触れられていて、「受験生が志望校を決めるときの傾向と対策みたいだな」と思いながら読みました。


 今回、『万引き家族』が多くの人に観られているため、称賛も批判も大きくなっているのですが、是枝監督のスタンスというのは、以前から変わっていないのです。


 是枝監督の出世作ともいえる映画『誰も知らない』について。

 『誰も知らない』の企画が15年というずいぶん長い時間を経たことで、いちばん大きく変化したのは僕自身の「目線」です。
 初めて脚本を書いた89年はまだ20代。主人公の少年へのシンパシーが強く、モノローグも多用され、できあがった『誰も知らない』よりはもっとドラマチックな展開でした。その後、タイトルは『素晴らしい日曜日』から『大人になったらぼくは……』に変わりましたが、物語の主語は「ぼく」のままでした。
 ところが、『誰も知らない』を撮りはじめた2002年秋、僕は事件(1988年の「西巣鴨子ども四人置き去り事件」)当時の母親と同じ四十歳となり、大人の側に立たざるを得なくなったわけです。
 また、二十年前という近過去を撮ると制作費がかかりすぎるので、現代の話にしたのですが、ちょうど「ネグレクト」という言葉が2005〜6年くらいに一般的となり、起きた当時は非常に特異だった事件が、そのころには身近なものに変化していました。時代が事件に追いついたというべきか、とにかくそれだけの時間を経たのは、かえって良い結果になったと思います。
 この映画で描きたかったのは、誰が正しくて誰が間違っていたのかとか、大人は子どもに対してこのように接するべきだとか、子どもをめぐる法律をこう変えるべきだといった批判や教訓や提言ではありません。本当にそこで暮らしているように子どもたちの日常を描くこと。そしてそれを彼らのそばでじっと見つめること。彼らの声に耳を傾けること。そうすることで、彼らの言葉を独り言(モノローグ)ではなく、対話(ダイアローグ)にすること。彼らの目に僕らが見返されることです。
 そのような態度は、通常のフィクションの演出としては珍しいかもしれません。それは僕がテレビのドキュメンタリーの現場で発見した対象との距離のとり方であり、時間と空間の共有の方法であり、取材者としての倫理的なスタンスで、『誰も知らない』も基本的にはそのスタンスで撮ることを決めました。わかりやすい白と黒の対比ではなく、グレーのグラデーションで世界を記述したい。ヒーローも悪役もいない、僕たちが生きている相対的な価値観の世界を、そのまま描きたかったのです。
 その試みはきちんと最後まで貫けたのではないかと思います。
『誰も知らない』はカンヌ映画祭で80近い取材を受けましたが、いちばん印象的だったのは、「あなたは映画の登場人物に道徳的なジャッジを下さない。子どもを捨てた母さえ断罪していない」という指摘でした。僕はこのように答えました。
 映画は人を裁くためにあるのではないし、監督は神でも裁判官でもない。悪者を用意することで物語(世界)はわかりやすくなるかもしれないけれど、そうしないことで逆に観た人たちがこの映画を自分の問題として日常にまで引きずって帰ってもらえるのではないだろうか——。
 その考えはいまも基本的に変わりません。映画を観た人が日常に帰っていったときに、その人の日常の見え方が変わったり、日常を批評的に見るためのきっかけになったりしてくれたら、といつも願っています。


 『万引き家族』も、まさにこういう映画なんですよね。
 「映画は人を裁くためにあるのではない」
 たしかにそうなんだと思います。
 その一方で、フィクションの世界なのだから、白黒ハッキリつけて、スッキリしたい、という人もいるのでしょうけど。

 そういえば、ドラマ(『ゴーイング マイ ホーム』)放映後、三谷幸喜さんと対談したときに「是枝さん、連ドラでやりたいこと全部やったでしょう。僕は連ドラでやりたいことをやったことは一度もありません。映画もそうです」と言われて驚きました。
 三谷さんはドラマや映画ではエンターテインメントとして楽しませることを意識しているので、やりたいことは芝居でしかしていないそうです。僕が「やりたいことを全部やったのですが、視聴率が低くて」と話すと、「あれで視聴率が取れると思っているんですか!?」と𠮟られました。三谷さんに言われるなら清々しいというか、本望です。
 その三谷さんですが、彼はいつも取材をしないで書くのだそうです。すべて想像で書く。
 唯一取材をして書いたのが、三夜連続スペシャルドラマ『わが家の歴史』で、主演の柴咲コウさんが演じた八女政子という人物に、自分の母親の実話を重ねて書いたところ、初めて「リアリティがない」と言われたのだとか。それまで取材をせずにどんなに荒唐無稽なことを書いても、そう言われたことのがなかったそうで、「唯一リアルな話を書いたら『あんな人いない』と言われてショックだった。いかにリアリティというのがいい加減かということをつくづく感じた」とおっしゃっていて、三谷さんらしい逸話だなと思いました。


 是枝監督が撮りたい作品と「商業性」の折り合いをつけるのは難しい。
 それでも、さまざまな工夫をして、作品をつくりつづけています。
 これを読むと、是枝監督の今までの作品をあらためて観直してみたくなるのです。


万引き家族【映画小説化作品】

万引き家族【映画小説化作品】

誰も知らない

誰も知らない

アクセスカウンター