会社は学校じゃないと言われて、意気込んで入ったら学校より学校だった話

社内研修イメージ

Gettey Images/Michael H

「会社は学校じゃねぇんだよ」という言葉が流行った。今ではドラマになっている。画一的に並べられた椅子に固定され、個性を出せず、一方的な授業を浴びせられる毎日に辟易としていた若者たちにとっては、「会社は学校じゃない」という言葉は希望の言葉に聞こえるはずだ。

だが、果たして本当にそうだろうか。

ここでいう学校というものが、思考と行動の自由がなく、違いが迫害される個性を殺す箱だったとするならば、僕は会社は学校以上に“学校”なのではないかと思えてならない。

事実、筆者は学校の画一的な雰囲気が苦手だった。

元々、幼少期にモンテッソーリ教育を受けたこともあり、理解が早かった。小学校の時、授業ですでに理解していることを、延々と座らせ続けられ、一方的に語られる時間は地獄だった。

私はその先のページにどんな問題があるのかパラパラと見ていた。先生は言う。「今は◯◯ページです。協調性がないわね」と。

仕方なく私はぼーっとしていた。そこで先生は言う「授業中にぼーっとしてはいけません。集中しなさい」と。何に集中すればいいのかわからなかった。

すると隣の友達がわからずに困っていた。私は解き方を教えた。そこで先生は言う。「先生が教えてるんだから、あなたはだまってなさい」と。

私は、心底思った。なぜこんな無駄な時間を過ごさないといけないのか。授業と休み時間が逆になったらいいのに……。

学校っぽい教育法の理由

『会社は学校じゃねぇんだよ』

『会社は学校じゃねぇんだよ』

画像:AbemaTVウェブサイトより

多くの入社式では、「仕事は勉強と違って正解がありません。あなたたちの若くて自由な発想を仕事に生かしてください」のような訓示が説かれているらしい。

だが事実、だいたいの仕事に正解はある。正解が決まっていて、オペレーションが決まっていて、それを同時並行で段取り良くこなす人が評価される。俗に言う「あいつは仕事ができる」というのは、段取りと社内調整力とマルチタスク遂行能力が秀でている人間を指しているように感じる。

つまり、正解がある仕事を行う上で、身につける能力は勉強で培った大量情報処理能力と相性がよいため、極めて学校っぽい教育方法で育成される。合理的である。

実際に、自身が新卒で金融大手の会社に入ってからというもの、ただひたすら座学で暗記をする日々が続いた。研修ではクラスが分けられ、担任の講師がいて、時間割が決まっている。クラスには、真面目な子、ちょっとお調子者の子、少し個性的で浮いている子、やんちゃグループっぽい集団など、学校の登場人物がそのままいる。学校以外の何物でもなかった。少し違うのはスーツを着ていることと、タバコを吸っていいことくらいだった。

没個性的な空間の中で、「あぁ、ここには長くいられないだろうなぁ」と感じたことを覚えている。

おとなしくしておかねば

先日、とあるコンサルティングファームに就職して1年目の知人と偶然会った。そこで「どう?会社は楽しい?」と聞くと「学校過ぎてやばいです」という。

ひたすら座学の研修を受けているようだ。「どうしてお前らが研修を受けているか分かるか?このままでは外に出せないからだ」「給料もらって研修を受けていることに感謝しろ」「お前らは会社の負債だ」などと言われているらしい。

複雑な表情で「同期が待っているので戻りますね」と言って彼は去っていった。僕が新卒入社したときから9年間で、新卒研修の現場は何も変わっていない。

実際、多くの企業において個性を求められるのは就職活動の面接のときくらいだ。入社後に、就職活動のときに見せた個性を職場で発揮しようものなら「1年目のくせに、若手のくせに、何言ってるのだ?」という雰囲気がつきまとう。

また、同期は仲間にもなるが、高みを目指したい人にとっては足かせになることもある。

最初に入社した会社の研修で積極的に発表している同期入社の男性がいた。発言内容の質はともかく、前のめりなのは褒められるべきことだ。

だが、実際、喫煙所や酒の場では彼の陰口が言われていた。それを聞いた周囲の皆は思う。「ここは学校と同じだ。おとなしくしておかなければならない」と。 鼻息荒く入った若者たちの牙は、緩やかに抜かれていく。

優秀な人から辞めていく…という人事の本音

悩むサラリーマン

優秀な人間から「学校」のような会社を去っていくことに人事は頭を抱えている。

Getty Image/Blue Jean Images

いわゆる一流企業の人事の方と話していると、こう漏らされることがよくある。

「優秀な人から若い間に辞めていってしまう。どうにかしないと」

なぜこの現象は起きるのだろうか?

ここでいう「優秀な人」とはどのような人だろうか。

今私は採用を支援する企業で働いているが、採用市場で求められる「優秀な人」の共通点を鑑みると、おそらくアンテナが高く、自分の頭で考えて、行動できそうな人を指しているのだろう。

だとすると、なぜ彼らは会社を去っていくのか。

おそらくそれは閉塞感と危機感が関係している。

アンテナを伸ばせる天井もなければ、自分の頭で考えても、自ら行動を起こすまでに数々のハンコと社内決済をとらないといけないからだ。自分より“知らない”上司を育成/説得しなければいけない状況が続くと、めんどくさくて萎えてしまう。ここでは足かせが多すぎると。

次第に危機感が募る。

同時に、SNSなどで、実際に働くことを自由に楽しんでいる人間の存在を知る。

あちら側にいったほうがいいのではないか?でも今さら自分にできるのか?今の会社でそれなりに金ももらっている。今の環境で我慢してもいいのでは?でもこのまま組織と沈むのは御免だ。

さまざまな葛藤を超えて、彼らは去っていく。

実際、銀行時代の同期の結婚式に呼ばれたときに印象深い出来事があった。 テーブルには8人くらいいた。半分は新卒で入った会社を続けてていて、半分は辞めていた。最初は8人で話していたが、時間が経つと見事に4人ずつに分かれた。半分は過去と中の話を、半分は未来と外の話をしていた。

高額報酬は社畜手数料?

現役の1人が「お前ら楽しそうよな」とボソッと言った。私は「年収お前らの半分くらいだからね。せめて楽しまないと」と返した。その言葉に対する彼の言葉が頭には離れない。「オレの年収の半分は社畜手数料だからさ。とはいえもう出られないし。うらやましいよ」と、彼には彼の事情がある。それ以上、何も返さなかった。

今、筆者のところには大量の転職相談のメッセージが来る。

辞めたやつに対して、「うちで務まらなかったやつだ」という言葉で全て片付けるのはもう古い。当時大きなコンプレックスを抱えて会社を去った筆者としては、少しだけ自分の選択に対して自信を持てたような気がして救われている。

会社というガマン大会

怒れるビジネスパーソン

会社を辞める人間に怒りを覚えるのは、ガマン大会を先に降りた人が羨ましいから。

Shutterstock/imtmphoto

一方で、辞める人に対して、悪態をつく人がいるという話をよく聞く。

ある友人は非常に優秀な営業マンだった。全社で表彰されるような人間だ。彼が辞める前、私は相談にのっていた。ある日彼からこんなことを言われた。

「人事に言ったら、日本社会で日の目を見られないようにしてやる。と怒られたよ。そんな悪いことしたのかな」と。

彼は怒るわけでもなく、笑いながらも、何だか悲しそうな顔をしていた。

私は彼が必死に仕事をしていたことを知っている。。売り上げは給料の何倍もあげ、そのために努力もしていた。会社との間では、とっくにペイしているのだ。

なぜ、辞めるときにそこまで言われなければならないのか。理解ができない。彼は辞める際のエピソードを周りに話すだろうし、(就職・転職のための口コミサイトである)Vorkersにも書くだろう。こうやってストーリーとして紹介されてしまうこともある。採用ブランドは大きく毀損する。

ある有名な人事の方にこの件について相談した。すると彼は一言。「ガマン大会を先に卒業した人が羨ましいんだよ。こんなにオレは我慢しているのにお前だけずるいぞと。古いよね」と。すっと腹落ちしたことを覚えている。

学校以上に学校である職場。ガマン大会を強いる環境で、去る者を攻めて、何を守ろうというのだろうか?

そして、異才を排斥し尽くしたその組織には、いったい何が残るのだろうか?


寺口 浩大:ワンキャリアの経営企画 / 採用担当。リーマン・ショック直後にメガバンクに入行後、企業再生、M&A関連の業務に従事。デロイトで人材育成支援後、HRスタートアップ、ワンキャリアで経営企画/採用を行う。社外において複数HRに関わるコミュニティのデザイン、プロデュースを手がける。3月よりライターとしても活動を開始。

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