「新世紀エヴァンゲリオン」の世界観は、2019年という「いま」と深く通じるものがある。
人類は世界の終末を待っているわけではないし、それに抗って戦おうとしているわけでもない。なぜなら、世界はすでに終わっているからだ。わたしたちは壊れた世界の片隅で生きている。できるのは、せいぜい事態をこれ以上悪化させないようにすることくらいしかない。
ここでは「わたしたち」と書いたが、作品に登場するのは思春期の不安定な少年少女と、「特務機関NERV」という謎に満ちた組織で働く大人たちだ。14歳の子どもたちは、エヴァンゲリオン(EVA)と呼ばれるロボットのような“生命体兵器”のパイロットになる訓練を受けている。
主人公はNERVの最高司令官である碇ゲンドウの息子の碇シンジで、作品のテーマはシンジのトラウマと心の葛藤だ。シンジは幼いころに母を失っている。父親は息子に無関心だ。シンジの心のなかには、EVAを操縦して未知の脅威と戦うことへの恐怖と、誰とも分かり合えないという疎外感が渦巻いている。究極的には現実そのものと格闘しているのだ。
オンラインの世界ではいまや、恐怖や疎外感といった感情を味わうのはごく普通になっている。そんな時代に、Netflixで「エヴァンゲリオン」のテレビアニメシリーズおよび映画2作品の配信が始まった。
ファン待望の世界配信
テレビアニメは1995年に放映され、劇場映画2本が97年に公開された。ただ、どれも日本以外での入手は困難な状況にあり、公式の英語字幕付きで作品を楽しむことは難しかった。正規版のブルーレイディスクなどは欧米で発売されておらず、作品を英語に翻訳した会社もつぶれてしまったからだ。
このため熱心なファンが作品を観たいと思っても、高値で取引されている古いDVDセットか海賊版のコピーを探すしかない時代が長く続いてきた。こうしたなか、今年になってNetflixで「エヴァンゲリオン」の配信が始まることが明らかになり、再び表舞台に戻ってきたのだ。
こうした歴史的な背景があり、その“宙ぶらりん”な状況に終止符を打ったからこそ、ネットフリックスにはふたつのメリットがもたらされる。ひとつは、熱狂的なファンが望んでやまなかったコンテンツを提供できるということ。そして伝説のアニメを配信したストリーミング大手という称号を得られる、ということだ。
ただ、ここ最近になって思いもよらない別の効果も出てきている。米国のテレビ文化において、これまでほとんど“無視”されてきた「アニメ(Anime=日本のアニメ)」という分野が注目されつつあるのだ。
日本アニメの文化的な「壁」を打ち破った作品
日本のアニメは90年代初頭から、米国において一定の地位を確立してきた。ただ、米国のテレビ界隈でのアニメの扱いを見ている限りでは、そんなことには気づかなかっただろう。
90年代の子どもたちは大人になり、いまやアニメはさまざまな世代から支持を得るようになっている(ただし『AKIRA』や『もののけ姫』といった著名な作品は、最初から子どもだけでなく幅広い年齢層に訴えかける魅力をもっていた)。それでも、この表現形態はこれまで、文化的には“キワモノ”に近い扱われ方をしており、評価の対象になることは少なかった。宮崎駿の映画や、それに匹敵する水準にあると判断された幸運な作品以外は、オンライン掲示板やコアなファン向けの出版物などでしか取り上げられてこなかったのだ。
しかし、驚くべきことに「新世紀エヴァンゲリオン」は違った。この作品は、アニメというジャンルを取り囲む文化的なディスクール(言説)の壁を打ち破るだけの可能性を秘めているのだ。
『ワシントン・ポスト』やニュースサイト「Vox.com」といった有名メディアにもエヴァンゲリオンを扱った記事が掲載され、ポッドキャストまで登場した。映画の愛好家の間で評判の高い購読制ヴィデオオンデマンド(SVOD)サーヴィス「MOBI」のサイトでも、「エヴァンゲリオン」が紹介されている。
シンジたちの内面の物語であるということ
エヴァンゲリオンが批評家にとってはマタタビのように魅力的だという点も、これだけの注目を浴びるのに一役買っているのだろう。アニメ作品の題材として典型的な戦争の恐怖、巨大ロボット、若きヒーローといった舞台装置を揃える一方で、この作品はある時点から、完全にシンジたちの内面の物語になる。アニメ史に残る作品になった理由はこのことが大きいはずだ。
監督の庵野秀明がシリーズの制作中に鬱状態に陥ったのは有名な話だが、確かに「新世紀エヴァンゲリオン」は究極的には精神が崩壊していくような内容だ。描かれるのは、フロイトやユングのコンセプトを散りばめた人間の内面の恐怖で、ユダヤ教の神秘思想のカバラやグノーシス主義に登場するモチーフなどが頻出する。こうした側面を詳細に分析し、作品の深みを解説していくのは、批評家たちにとってはたまらなく楽しい作業だろう。
だが、こうして批評家グループの内部だけでなく一般にも波及した「エヴァンゲリオン」ブームが、より広い文化的な動きにつながっていくことを願っている。
ストリーミングの利点のひとつに、提供される作品の多様性がある。消費者はテレビの時代と比べて、はるかにグローバルな内容のコンテンツに触れられるようになっているのだ。動画配信サーヴィスは、外国の作品を組み入れることで比較的簡単にラインナップを増やせる。一方で、契約者はこれまで存在すら知らなかった作品に触れることができる。
予見に満ちた素晴らしい作品
日本アニメのような大規模な映像産業の生み出したコンテンツは、いまや欧米の視聴者の目に触れる機会がこれまでになく増えている。欧米の主要メディアの文化批評は、この流れに乗り遅れていると言っていい。だが、動画配信サーヴィスのおかげで外国産のコンテンツが増えれば、こうした状況も変わっていくだろう。
ほんの1カ月ほど前までは、「新世紀エヴァンゲリオン」はアニメ専門のメディア以外ではほとんど取り上げられることがなかった。それが、ここにきて急速に注目されるようになっている。こうした動きが、メディアがテレビ業界の“空気”を見つめ直していく予兆であってほしいと願っている。
なぜなら、エヴァンゲリオンは予見に満ちた素晴らしい作品だからだ。ここで描かれる黙示録的な恐怖とトラウマの上に成り立つ世界観は、2019年という時代にあって、非常に強い説得力をもっている。だが、語られるべきアニメ作品は、ほかにもたくさん存在する。観なければならない作品はいくらでもあるのだ。
TEXT BY JULIE MUNCY
TRANSLATION BY CHIHIRO OKA