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“『たいていの恋は夢想』  理想の相手を想定したところで、その相手は永遠に現れることはない。ただ目の前にある現実を“是”とするか“非”とするか、“非”だったけれどなおざりに“是”となったり、“是”だったけれどうやむやのまま“非”となるのを見て見ぬ振りをしたり。  “人類”は時代を追うごとに理想の相手を想定しやすくなったのではないか。印字・印刷・映像技術の開発/発展によって。つまり、物語による逸話よりも、刷られた浮世絵よりも、白黒の写真よりも、雑誌のグラビアよりも、鮮明な映像情報の方が人間を具体的に描くからだ。具体化された虚像──しかも、大衆に向けてそれは過度に理想化されている──は、人に希望を与える。流行りの映画、ドラマ、アニメ、漫画、ゲーム、Youtube、SNS、さまざまな媒体で私たちに理想像をつくらせる。まるでそれが現実に起こり得るかのように。嘘など何ひとつないかのように。見ている当人の感覚をうっとりと麻痺させるために。そうすることで彼らの商売が成り立つのだから。  うっとりしていたい人の、なんと多いことか。  現実は昔から変わらない。夢に描いた理想の相手は、永遠に現れない。目の前の会手(相手)を変えることも容易くはない。目の前の人を受け入れるかどうかでしかないのだから。  結婚は、諦めが肝心だと人は言う。  結婚は、人生の墓場だと言う人もいる。  現実は、現実だ。夢は夢。  現実感のある虚像は、残酷だ。  技術の進歩によって、人間の心は豊かになっているといえるのだろうか。より一層、みすぼらしく、みじめに成っているのではないか。  その時代の人には、その時代の人として、それで幸せだったのだ。だってその時には、それしかなかったのだから。それがサイコーだったんだから。  だけど、“人類”は幸せに向かっていると言えるだろうか?  夢と現実の差に、人は溺れる。  夢をみているということを、人はうっとりしながら認識しているものだろうか。  夢の現実感。現実感のある夢。        現実の中の夢。        現実の中に夢をみること。        現実を夢みること。  それが夢(=空想)であるのか、現実であるのか、あるいは、現実に成し得ることであるのか。  夢(=空想)にみることを、人は本当に実現したいと思うだろうか。夢の中の居心地が良ければ、それを現実としてしまうのかもしれない。実現したいと思って夢をみるのではなく、夢を夢として、そこに溺れると言う現実に浸って、人は安心していたいのかもしれない。  そもそも夢をみ始める時点で、それを現実とすることを諦めているのではないか(諦めさせられているのかもしれない)。夢は夢として摂取している。夢は夢として消費している。夢を現実とする気などさらさらなく、現実は現実として割り切っているのではないか。 「胡蝶の夢」をみていると、人々は認識しているだろうか。  現実は、いつも現実だ。  それが現実であるか、空想であるか  受け取る人が、現実を求めているか         空想を求めているか         現実を信じたいか         空想を信じたいか  夢をみていたいのか、それでも現実を直視せざるを得ないのか。  現実は、生であり、死であり、そして、幸せのことだ。その幸せをどう感じるかは、人それぞれである。だけれど、いま、そのひとが感じている幸せだけが、そのそのひとの感じ得る幸せではない。自分の領域の外側には、いくらでも幸せは(不幸せも!)転がっている。自分では思いもよらなかったことが幸せだったりするものだ。欠も満も同じ。三日月も満月も同じ月で、その見え方が違うだけ。どちらが良いということもなく、どちらが劣っているということもない。ただ、どちらも、実際に在る月を見ている。  ただ、幸せであればいいと思う。偶像によるシアワセもいいだろう。だけど、現実を積み重ねた幸せには、到底かなわないと、わたしは思う。人によって誘導されたシアワセと、現実としての、実感のある、自分が本当に求めている幸せを掴むこと。どちらがしあわせなのか、わかりきったことだと、わたしは思う。  そういった訳で、たいていの恋は夢想だ。  その、前の人を“是”としたとしても、それは間違いなくそのひとの一面でしかない。たまたまよく見えたのだ。それは自分の中に熟成された夢想にたまたま重なった幻かもしれないし、自分の親と似ているように感じるという錯覚だったりするのだろう。  人は、生まれてから死ぬまで恋をする。  でも、それは、すべて、夢。  だけど、夢そのものではなく、現実としての夢に恋することで、そのひとのことを愛することができるのかもしれない。  “是”も“非”も。  “美”も“醜”も。  “好”も“厭”も。  “正”も“負”も。  “得”も“損”も。  “興”も“飽”も。  吐く息も。  その頭蓋骨だって。  現実には敵わない。そうして現実に受け入れられることの歓びは、どこまでも尽きそうにない。完璧な人はない。現実に否定されることもあるだろう。それでも“是”になろうと、自分を磨く。現実に受け入れてもらうべく。そうして人は成長していく。  だから、生きていることはこの上なく楽しい。死ぬまで飽きないだろう。  恋をせんとや生まれけむ。  死してなお、(地獄ではなく)恋に落ちたい。”

たいていの恋は夢想 - どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

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『生きる歓び』

 私が生きているということのすべてが、私の生の歓びに直結している。私は、簡単に失われるだろう。私の感じてきた歓びとともに。私が生きている限り、それは私の体に保存され、いつか思い返すことがあるかもしれない。ふと、生きるという歓びを噛み締めるかもしれない。何か不幸があったときに、それが支えとなって生きることを志向するかもしれない。いろんなことを土台として、私は生きている。

 それは、性の悦びかもしれないし、書きたいという欲望かもしれない。食べるということだってまた歓びになっているし、寝ることもまたそうかもしれない。人と話し、ふれあい、笑い合うことだって、生きる歓びかも知れない。真っ赤な夕日を見つめているという心持ち、心の余裕、美しいと思う心、そういうことが生きる歓びにつながるかも知れない。

 生きることが終わったら、死もまた死んでしまう。死んでしまったら、何もかも失われる。生きていたということは、残ることもあれば、失われることもある。その人が表現したことは、残るかもしれない。生きているということは、半ば表現することでもあるから、その人に近しい人にとっては、その表現こそが、その人そのものとなる。何もかもが表現となる。些細なことも、仰々しいことも。本当にさまざまなことがまた別の人の生きるの中に受け継がれていく。

 生きる歓びは、どこにも保存されない。どこかに溜まっていけばいいのだけど。生きて、歓びを感じ、それを表現し、それが受け継がれない限り、あるいは、宝物として尊重されない限り、失われていく。死とともに。私の感じた全ての生きる歓びを、この世界のどこかに保存しておくことはできない。それは、今、私の身体の中にあるのであって、それを表現しなければ、それを人に伝えることはかなわない。

 連綿と受け継がれてきた、途方もない生きるという歓び。優れたものもそうでないものも、私の生きるを今日も支えている。先人たちの生きる歓びと、私自身の生きる歓びがない混ぜになって、私の生きるを支えている。生きる歓びを感じることができるのは、私が生きているからだ。生そのものが、私の生きるを支えている。生という内燃が、私を動かしている。

 私は、今日も表現している。生きているという歓びを。そうとは意識せずに。どんなに憂鬱だとしても、それは少なからずある。生きている限りは。それを大袈裟に感じることもできるし、些細なことに歓びを感じ、あるいは、自分を慰めることもできるかもしれない。感じることを、諦めてはいけない。どんな絶望にも、生きる歓びは隠れている。その瞬間を生きている限り、生きる歓びはあるのだ。生きているのだから。

 それは、言葉かもしれない。音楽かもしれない。舞踏かもしれない。芝居かもしれない。いろんな方法で人類はそれを残してきた。誰かの生きる歓びが、また別の誰かの生きる歓びとなって。私たちがいなくなると同時にすべては簡単に失われてしまうからこそ、表現としての尊さがそこにはある。

 今、生きていることに勝る歓びはない。私が生きていることのすべてが、私の生きる歓びに直結している。どんな行動も、どんな想いも、どんないたわりも、どんな愛嬌も、すべてが生きるという歓びそのものである。なにを以って歓ぶかというのが、その人自身である。私は、生きる歓びというパーツで生きている。その寄り集まりが私という人間である。だから、すべての人間は尊いのだ。それを表現している、否応なく表現している、すべての人間はもれなく尊いのだ。そのことを忘れてはいけない。

 私は、表現したいと思う。私の感じてきた、生きる歓びというものを。できるだけ、人に伝わるかたちで。そうやって、それがまた別の人の生きる歓びとなることを願う。


生きる歓び - どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ https://110-shine.hatenablog.jp/entry/2023/05/19/035049

『生きる歓び』

 私が生きているということのすべてが、私の生の歓びに直結している。私は、簡単に失われるだろう。私の感じてきた歓びとともに。私が生きている限り、それは私の体に保存され、いつか思い返すことがあるかもしれない。ふと、生きるという歓びを噛み締めるかもしれない。何か不幸があったときに、それが支えとなって生きることを志向するかもしれない。いろんなことを土台として、私は生きている。

 それは、性の悦びかもしれないし、書きたいという欲望かもしれない。食べるということだってまた歓びになっているし、寝ることもまたそうかもしれない。人と話し、ふれあい、笑い合うことだって、生きる歓びかも知れない。真っ赤な夕日を見つめているという心持ち、心の余裕、美しいと思う心、そういうことが生きる歓びにつながるかも知れない。

 生きることが終わったら、死もまた死んでしまう。死んでしまったら、何もかも失われる。生きていたということは、残ることもあれば、失われることもある。その人が表現したことは、残るかもしれない。生きているということは、半ば表現することでもあるから、その人に近しい人にとっては、その表現こそが、その人そのものとなる。何もかもが表現となる。些細なことも、仰々しいことも。本当にさまざまなことがまた別の人の生きるの中に受け継がれていく。

 生きる歓びは、どこにも保存されない。どこかに溜まっていけばいいのだけど。生きて、歓びを感じ、それを表現し、それが受け継がれない限り、あるいは、宝物として尊重されない限り、失われていく。死とともに。私の感じた全ての生きる歓びを、この世界のどこかに保存しておくことはできない。それは、今、私の身体の中にあるのであって、それを表現しなければ、それを人に伝えることはかなわない。

 連綿と受け継がれてきた、途方もない生きるという歓び。優れたものもそうでないものも、私の生きるを今日も支えている。先人たちの生きる歓びと、私自身の生きる歓びがない混ぜになって、私の生きるを支えている。生きる歓びを感じることができるのは、私が生きているからだ。生そのものが、私の生きるを支えている。生という内燃が、私を動かしている。

 私は、今日も表現している。生きているという歓びを。そうとは意識せずに。どんなに憂鬱だとしても、それは少なからずある。生きている限りは。それを大袈裟に感じることもできるし、些細なことに歓びを感じ、あるいは、自分を慰めることもできるかもしれない。感じることを、諦めてはいけない。どんな絶望にも、生きる歓びは隠れている。その瞬間を生きている限り、生きる歓びはあるのだ。生きているのだから。

 それは、言葉かもしれない。音楽かもしれない。舞踏かもしれない。芝居かもしれない。いろんな方法で人類はそれを残してきた。誰かの生きる歓びが、また別の誰かの生きる歓びとなって。私たちがいなくなると同時にすべては簡単に失われてしまうからこそ、表現としての尊さがそこにはある。

 今、生きていることに勝る歓びはない。私が生きていることのすべてが、私の生きる歓びに直結している。どんな行動も、どんな想いも、どんないたわりも、どんな愛嬌も、すべてが生きるという歓びそのものである。なにを以って歓ぶかというのが、その人自身である。私は、生きる歓びというパーツで生きている。その寄り集まりが私という人間である。だから、すべての人間は尊いのだ。それを表現している、否応なく表現している、すべての人間はもれなく尊いのだ。そのことを忘れてはいけない。

 私は、表現したいと思う。私の感じてきた、生きる歓びというものを。できるだけ、人に伝わるかたちで。そうやって、それがまた別の人の生きる歓びとなることを願う。


生きる歓び - どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ https://110-shine.hatenablog.jp/entry/2023/05/19/035049

“『普通とか』
 普通ってなんなんだろう。常識って、なんなんだろう。
 生きていると、ときどき、常識が怖くなる。どこかに自分の感知していない常識というのがあって、それで世界が覆い尽くされていて、私はそこから取り残されていて、あなたは変だ、ということを突きつけられているような気がする。社会の持っている、そういう常識について、あるいは普通の持つ圧力みたいなものって、無言で当たり前を突きつけてくる。今、この世界に生きていたら、当たり前でしょう、ということを否応なしに突きつけてくる。それは、好むと好まざるとに関わらず、ある人にはあるし、ない人にはない。
 どうでもいいことは多い。自分のこだわりというものがあることだってある。頓着しない場合、常識に従っていた方が、普通に合わせていた方が無難なのだろう。多分、世界はそうなっている。自分のこだわりがあることに関しては、そのこだわりを押し通すことだってできるし、やはり常識に、普通に寄せることだってできる。癪だけど、自分のこだわりでさえ、人にわかるように変えなくてはいけないことがあって、私はつらいし、しんどくなってしまう。
 そして、どうでもいいことは多い。私は、他者を軽んじているところがあるのかもしれない。そうやってくる弊害は、いろいろとある。人と相入れなくなってしまったりする。簡単に人とうまくいかなくなってしまう。そうやって、私はどんどん孤独になっていったのだった。どうでもいい事は、常識に従っていればいい、そのテーゼでさえ、私は守ることができていない。どうでもいいからである。自分の、及ぶ考えが狭い、浅い。だからこそ、普通でいるべきなのだけど、そうはいかず、どうしてもお座なりになってしまう。そうやって、ちょっと変な人間ができているのだと思う。
 どうでもいいことこそ、必死になって普通であろうとしなくてはいけない。その矛盾。そこに手を抜かないのが、普通と言われる人であって、私は普通ではないのかもしれない。こだわりがあるわけではない。たぶん。こだわりがある部分は自信がある。ここはこう感じ取って欲しいだとか、どうでもいいのとは違う。
 問題はどうでもいいことなのだ。いかに無難にするか。いかに普通に終わらせるか。こだわりがあるわけではなくて、こだわりがなさ過ぎるのだ。どうでもいいのだ。いろんなことが。そういう自分に辟易したりして、反省したりして、でも、どうにもならないことだったりする。自分を芯から変えないと、どうにもならないことかもしれない。
 普通が怖い。常識が怖い。そうやって、理解されないことが怖い。理解しようともしてもらえないことが怖い。諦められるのが怖い。興味を失われるのが怖い。異端扱いされるのが怖い。だけど、どうでもいいことを丁寧に扱うことができない。そういうこだわりなのかもしれない。
 たぶん、人の中でうまく立ち回っていくのにはコツがあって、それを押さえないとうまくいかない。それは一人ひとり違っていて、自分の不具合とか、特徴とか、考え方とか、いろんな要素によって成っている。だから、王道というものがない。それを経験則として把握して、うまくやっていけるようにやっていくということなのだろう。けれど。
 私は疲れてしまった。人の中でうまくやれるようにやっていくことに。大抵のことは、わけがわからないことだった。好かれることもあったけれど、嫌われることもあった。その急勾配を、私はどうでもいいと思ってしまっている。人との関係とか、人と仲良くするであるとか、そういうことが。
 普通はこうする、ということの普通って、許されることと許されないこととあって、その場でも、その時代でも、空気でも状況でも、いろんな条件によって変わる。たぶん、ぼんやり生きている自分には、生きていくのが大変なのだと思う。自分なりに生きていくことでしか、自分を保つことができない。そして、自分なりに生きることが厄介なのだと思う。人にはいろいろ都合がある。あるのに、興味半ばで理解しようとしてくれず、排除する人たちのことは、やっぱり好きにもなれないし、興味も湧かないでいる。
 きっと、この世界のどこかには、私のことをわかってくれる人がいる、そう思ってなんとか生き凌いでいる。そういう人と生きづらさを分かち合うために、私は書くのかもしれなかった。
 世界の中で、生きているって、不思議だ、とときどき思うのだった。”
“『普通とか』
 普通ってなんなんだろう。常識って、なんなんだろう。
 生きていると、ときどき、常識が怖くなる。どこかに自分の感知していない常識というのがあって、それで世界が覆い尽くされていて、私はそこから取り残されていて、あなたは変だ、ということを突きつけられているような気がする。社会の持っている、そういう常識について、あるいは普通の持つ圧力みたいなものって、無言で当たり前を突きつけてくる。今、この世界に生きていたら、当たり前でしょう、ということを否応なしに突きつけてくる。それは、好むと好まざるとに関わらず、ある人にはあるし、ない人にはない。
 どうでもいいことは多い。自分のこだわりというものがあることだってある。頓着しない場合、常識に従っていた方が、普通に合わせていた方が無難なのだろう。多分、世界はそうなっている。自分のこだわりがあることに関しては、そのこだわりを押し通すことだってできるし、やはり常識に、普通に寄せることだってできる。癪だけど、自分のこだわりでさえ、人にわかるように変えなくてはいけないことがあって、私はつらいし、しんどくなってしまう。
 そして、どうでもいいことは多い。私は、他者を軽んじているところがあるのかもしれない。そうやってくる弊害は、いろいろとある。人と相入れなくなってしまったりする。簡単に人とうまくいかなくなってしまう。そうやって、私はどんどん孤独になっていったのだった。どうでもいい事は、常識に従っていればいい、そのテーゼでさえ、私は守ることができていない。どうでもいいからである。自分の、及ぶ考えが狭い、浅い。だからこそ、普通でいるべきなのだけど、そうはいかず、どうしてもお座なりになってしまう。そうやって、ちょっと変な人間ができているのだと思う。
 どうでもいいことこそ、必死になって普通であろうとしなくてはいけない。その矛盾。そこに手を抜かないのが、普通と言われる人であって、私は普通ではないのかもしれない。こだわりがあるわけではない。たぶん。こだわりがある部分は自信がある。ここはこう感じ取って欲しいだとか、どうでもいいのとは違う。
 問題はどうでもいいことなのだ。いかに無難にするか。いかに普通に終わらせるか。こだわりがあるわけではなくて、こだわりがなさ過ぎるのだ。どうでもいいのだ。いろんなことが。そういう自分に辟易したりして、反省したりして、でも、どうにもならないことだったりする。自分を芯から変えないと、どうにもならないことかもしれない。
 普通が怖い。常識が怖い。そうやって、理解されないことが怖い。理解しようともしてもらえないことが怖い。諦められるのが怖い。興味を失われるのが怖い。異端扱いされるのが怖い。だけど、どうでもいいことを丁寧に扱うことができない。そういうこだわりなのかもしれない。
 たぶん、人の中でうまく立ち回っていくのにはコツがあって、それを押さえないとうまくいかない。それは一人ひとり違っていて、自分の不具合とか、特徴とか、考え方とか、いろんな要素によって成っている。だから、王道というものがない。それを経験則として把握して、うまくやっていけるようにやっていくということなのだろう。けれど。
 私は疲れてしまった。人の中でうまくやれるようにやっていくことに。大抵のことは、わけがわからないことだった。好かれることもあったけれど、嫌われることもあった。その急勾配を、私はどうでもいいと思ってしまっている。人との関係とか、人と仲良くするであるとか、そういうことが。
 普通はこうする、ということの普通って、許されることと許されないこととあって、その場でも、その時代でも、空気でも状況でも、いろんな条件によって変わる。たぶん、ぼんやり生きている自分には、生きていくのが大変なのだと思う。自分なりに生きていくことでしか、自分を保つことができない。そして、自分なりに生きることが厄介なのだと思う。人にはいろいろ都合がある。あるのに、興味半ばで理解しようとしてくれず、排除する人たちのことは、やっぱり好きにもなれないし、興味も湧かないでいる。
 きっと、この世界のどこかには、私のことをわかってくれる人がいる、そう思ってなんとか生き凌いでいる。そういう人と生きづらさを分かち合うために、私は書くのかもしれなかった。
 世界の中で、生きているって、不思議だ、とときどき思うのだった。”
“『普通とか』
 普通ってなんなんだろう。常識って、なんなんだろう。
 生きていると、ときどき、常識が怖くなる。どこかに自分の感知していない常識というのがあって、それで世界が覆い尽くされていて、私はそこから取り残されていて、あなたは変だ、ということを突きつけられているような気がする。社会の持っている、そういう常識について、あるいは普通の持つ圧力みたいなものって、無言で当たり前を突きつけてくる。今、この世界に生きていたら、当たり前でしょう、ということを否応なしに突きつけてくる。それは、好むと好まざるとに関わらず、ある人にはあるし、ない人にはない。
 どうでもいいことは多い。自分のこだわりというものがあることだってある。頓着しない場合、常識に従っていた方が、普通に合わせていた方が無難なのだろう。多分、世界はそうなっている。自分のこだわりがあることに関しては、そのこだわりを押し通すことだってできるし、やはり常識に、普通に寄せることだってできる。癪だけど、自分のこだわりでさえ、人にわかるように変えなくてはいけないことがあって、私はつらいし、しんどくなってしまう。
 そして、どうでもいいことは多い。私は、他者を軽んじているところがあるのかもしれない。そうやってくる弊害は、いろいろとある。人と相入れなくなってしまったりする。簡単に人とうまくいかなくなってしまう。そうやって、私はどんどん孤独になっていったのだった。どうでもいい事は、常識に従っていればいい、そのテーゼでさえ、私は守ることができていない。どうでもいいからである。自分の、及ぶ考えが狭い、浅い。だからこそ、普通でいるべきなのだけど、そうはいかず、どうしてもお座なりになってしまう。そうやって、ちょっと変な人間ができているのだと思う。
 どうでもいいことこそ、必死になって普通であろうとしなくてはいけない。その矛盾。そこに手を抜かないのが、普通と言われる人であって、私は普通ではないのかもしれない。こだわりがあるわけではない。たぶん。こだわりがある部分は自信がある。ここはこう感じ取って欲しいだとか、どうでもいいのとは違う。
 問題はどうでもいいことなのだ。いかに無難にするか。いかに普通に終わらせるか。こだわりがあるわけではなくて、こだわりがなさ過ぎるのだ。どうでもいいのだ。いろんなことが。そういう自分に辟易したりして、反省したりして、でも、どうにもならないことだったりする。自分を芯から変えないと、どうにもならないことかもしれない。
 普通が怖い。常識が怖い。そうやって、理解されないことが怖い。理解しようともしてもらえないことが怖い。諦められるのが怖い。興味を失われるのが怖い。異端扱いされるのが怖い。だけど、どうでもいいことを丁寧に扱うことができない。そういうこだわりなのかもしれない。
 たぶん、人の中でうまく立ち回っていくのにはコツがあって、それを押さえないとうまくいかない。それは一人ひとり違っていて、自分の不具合とか、特徴とか、考え方とか、いろんな要素によって成っている。だから、王道というものがない。それを経験則として把握して、うまくやっていけるようにやっていくということなのだろう。けれど。
 私は疲れてしまった。人の中でうまくやれるようにやっていくことに。大抵のことは、わけがわからないことだった。好かれることもあったけれど、嫌われることもあった。その急勾配を、私はどうでもいいと思ってしまっている。人との関係とか、人と仲良くするであるとか、そういうことが。
 普通はこうする、ということの普通って、許されることと許されないこととあって、その場でも、その時代でも、空気でも状況でも、いろんな条件によって変わる。たぶん、ぼんやり生きている自分には、生きていくのが大変なのだと思う。自分なりに生きていくことでしか、自分を保つことができない。そして、自分なりに生きることが厄介なのだと思う。人にはいろいろ都合がある。あるのに、興味半ばで理解しようとしてくれず、排除する人たちのことは、やっぱり好きにもなれないし、興味も湧かないでいる。
 きっと、この世界のどこかには、私のことをわかってくれる人がいる、そう思ってなんとか生き凌いでいる。そういう人と生きづらさを分かち合うために、私は書くのかもしれなかった。
 世界の中で、生きているって、不思議だ、とときどき思うのだった。”

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“『自分の都合、人の都合』  みんなそれぞれに自分の都合というものがあるのだろうと思う。人との接触は、自分の都合と人の都合との兼ね合いなのだと思う。そこがうまく歯車が回っていかないと、何もできない。上手くいかない。  他人との接触がほぼない今の私には、人の都合を慮ることができないかもしれない。人とうまくやっていく自信がない。そうなってしまったのは、流行り病のせいではなくて、自分自身のせいなのだけど、それでも、このままで大丈夫なのか、と不安になったりする。  人の都合と自分の都合との兼ね合いだけでなくて、自分自身との兼ね合いもある。私はよく、自分に都合よく考えてしまう。実際にはできること、できないこと、したいこと、したくないこと、そういうことをよく混同する。自分の都合に合わせて歪めてしまう。そこには自分の思惑があり、希望があり、願望がある。こうあったらいいな、が自分のありようを歪めてしまう。自分に都合よく考えるとき、何かの辻褄がきっと合っていない。それなのに、私は生きていて、それこそ都合よく生きていて、たぶん、明日も生きる。その綻びはきっとどこかに出ていて、それでさえ自分の都合で見て見ぬふりをしたり、なかったことにしたりしているのかもしれない。あるいは無意識に、あるいは一瞬の短時間で。  だからなのかもしれない。自分に都合よく考えている人のことを見ると気になってしまう。そんな、自分に都合よく考えても、上手くいかないよ、などと自分を棚に上げて思ってしまう。だけど、自分だってそうなのだ。人のことはつぶさに見えるのに、自分のことは上手く見ることができない。  現実を見つめること、把握することでしか、何かを歪めずに変えることはできない。自分の都合とは違う現実をきちんと見つめて、向き合って初めて何かをすることができる。自分の都合は邪魔なのだ。そんなこと、知ったことではないと言わんばかりに、関係ないことだ。ただやること、やるべきこと、したいことがあるだけ。それを達成可能かどうかは、自分の都合とは関係ない。いや、大いに関係があるのだけど、自分の都合が邪魔になってはいけない。自分で自分を歪めてはいけない。できないものをできると思ったり、できることをできないと思ったり。多くの場合は、プライドとか、見栄が関係しているのだと思う。このくらいはできなくては、という。現実を見据えていない。自分のできること、できないことを把握できていない。  あるいは、こういうこともある。自分に都合の悪い考えが目の前に現れると、自分を罰してしまう。そうやって、自分を貶めることによって、自分を歪めている。自分を罰することと、目の前の自分に都合の悪いことは、全く関連・関係がない。自分の発想として、自分を貶めている。そうやって都合の悪いことから目を逸らしているのだと思う。自分を罰することによって、意識はそちらに集中し、罰している自分と罰せられている自分とによって、一杯いっぱいになってしまう。頭の中は罰せられている自分で溢れかえる。そうやって、自分に都合の悪いことは頭の中から飛んでいく。結果として、現実を捉えることはできず、何も解決しないのだ。  自分に都合の悪いという現実がある。そのことを直視できない。だから自分を歪めてしまう。関係ないことを考えて誤魔化してしまう。忘れようとする。私の頭の中はそうなっている。そうなることで忙しい。  ひたすらに、現実を捉え続けることでしかない。今、何ができるか。何をするべきか。現実を見据えることでしか、できるものもできないし、やりたいこともやれない。今、何が大事か、ということに焦点が当たっていないと何事もうまくいかない。何を優先するべきなのか。何に力を入れるべきなのか。何に集中するべきなのか。現実を歪めていないか。  自分の都合、というものが邪魔なのかもしれない。そこに隠れているプライドだとか見栄だとか、このくらいはできないといけない、これは持っていないといけない、あるいは自分の現実はこうであるという都合の悪さは、いつの間にか自分の中に芽生えている自分の都合から来ている。自分の都合というものをうまく無くすことができたら、いろんなことがうまくいくのではないか。なんだってオーケー、なんだってウェルカム、なんだってどんとこい、という気持ちでいたら、現実を歪める必要なんてないし、自分に都合よく考えることもないし、自分に都合が悪いということもない。  人との関係性もそういう時はうまくいくような気がする。自分の都合を押し付け合うから、うまくいかないのだ。相手に対する配慮を欠き、自分の都合ばかりを優先するから、うまくいかないのだ。自分の都合が通っている時、相手は都合を手放している。だからうまくいくように見えているというだけで、互いが互いの都合を尊重せず、自分のしたいことばかりしていたら、うまくいかない。  こうあらねばならない、という気持ちは、多くの場合、窮屈だ。それによって現実を歪めるのなら尚更である。どんなものでもそれはそれで良い、という心境になれたら、なんだってうまくいくようになるのではないか。少なくとも、自由である。受け身で生きるという意味ではなくて、そういう状況を作るということだ。この状況でならば、なんだって受け入れるという状況を。場を。人を。そう生きることができるのなら、幸せなことだと、今の私は思ったりする。”

— ​自分の都合、人の都合 - どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

“『自分の都合、人の都合』
 みんなそれぞれに自分の都合というものがあるのだろうと思う。人との接触は、自分の都合と人の都合との兼ね合いなのだと思う。そこがうまく歯車が回っていかないと、何もできない。上手くいかない。
 他人との接触がほぼない今の私には、人の都合を慮ることができないかもしれない。人とうまくやっていく自信がない。そうなってしまったのは、流行り病のせいではなくて、自分自身のせいなのだけど、それでも、このままで大丈夫なのか、と不安になったりする。
 人の都合と自分の都合との兼ね合いだけでなくて、自分自身との兼ね合いもある。私はよく、自分に都合よく考えてしまう。実際にはできること、できないこと、したいこと、したくないこと、そういうことをよく混同する。自分の都合に合わせて歪めてしまう。そこには自分の思惑があり、希望があり、願望がある。こうあったらいいな、が自分のありようを歪めてしまう。自分に都合よく考えるとき、何かの辻褄がきっと合っていない。それなのに、私は生きていて、それこそ都合よく生きていて、たぶん、明日も生きる。その綻びはきっとどこかに出ていて、それでさえ自分の都合で見て見ぬふりをしたり、なかったことにしたりしているのかもしれない。あるいは無意識に、あるいは一瞬の短時間で。
 だからなのかもしれない。自分に都合よく考えている人のことを見ると気になってしまう。そんな、自分に都合よく考えても、上手くいかないよ、などと自分を棚に上げて思ってしまう。だけど、自分だってそうなのだ。人のことはつぶさに見えるのに、自分のことは上手く見ることができない。
 現実を見つめること、把握することでしか、何かを歪めずに変えることはできない。自分の都合とは違う現実をきちんと見つめて、向き合って初めて何かをすることができる。自分の都合は邪魔なのだ。そんなこと、知ったことではないと言わんばかりに、関係ないことだ。ただやること、やるべきこと、したいことがあるだけ。それを達成可能かどうかは、自分の都合とは関係ない。いや、大いに関係があるのだけど、自分の都合が邪魔になってはいけない。自分で自分を歪めてはいけない。できないものをできると思ったり、できることをできないと思ったり。多くの場合は、プライドとか、見栄が関係しているのだと思う。このくらいはできなくては、という。現実を見据えていない。自分のできること、できないことを把握できていない。
 あるいは、こういうこともある。自分に都合の悪い考えが目の前に現れると、自分を罰してしまう。そうやって、自分を貶めることによって、自分を歪めている。自分を罰することと、目の前の自分に都合の悪いことは、全く関連・関係がない。自分の発想として、自分を貶めている。そうやって都合の悪いことから目を逸らしているのだと思う。自分を罰することによって、意識はそちらに集中し、罰している自分と罰せられている自分とによって、一杯いっぱいになってしまう。頭の中は罰せられている自分で溢れかえる。そうやって、自分に都合の悪いことは頭の中から飛んでいく。結果として、現実を捉えることはできず、何も解決しないのだ。
 自分に都合の悪いという現実がある。そのことを直視できない。だから自分を歪めてしまう。関係ないことを考えて誤魔化してしまう。忘れようとする。私の頭の中はそうなっている。そうなることで忙しい。
 ひたすらに、現実を捉え続けることでしかない。今、何ができるか。何をするべきか。現実を見据えることでしか、できるものもできないし、やりたいこともやれない。今、何が大事か、ということに焦点が当たっていないと何事もうまくいかない。何を優先するべきなのか。何に力を入れるべきなのか。何に集中するべきなのか。現実を歪めていないか。
 自分の都合、というものが邪魔なのかもしれない。そこに隠れているプライドだとか見栄だとか、このくらいはできないといけない、これは持っていないといけない、あるいは自分の現実はこうであるという都合の悪さは、いつの間にか自分の中に芽生えている自分の都合から来ている。自分の都合というものをうまく無くすことができたら、いろんなことがうまくいくのではないか。なんだってオーケー、なんだってウェルカム、なんだってどんとこい、という気持ちでいたら、現実を歪める必要なんてないし、自分に都合よく考えることもないし、自分に都合が悪いということもない。
 人との関係性もそういう時はうまくいくような気がする。自分の都合を押し付け合うから、うまくいかないのだ。相手に対する配慮を欠き、自分の都合ばかりを優先するから、うまくいかないのだ。自分の都合が通っている時、相手は都合を手放している。だからうまくいくように見えているというだけで、互いが互いの都合を尊重せず、自分のしたいことばかりしていたら、うまくいかない。
 こうあらねばならない、という気持ちは、多くの場合、窮屈だ。それによって現実を歪めるのなら尚更である。どんなものでもそれはそれで良い、という心境になれたら、なんだってうまくいくようになるのではないか。少なくとも、自由である。受け身で生きるという意味ではなくて、そういう状況を作るということだ。この状況でならば、なんだって受け入れるという状況を。場を。人を。そう生きることができるのなら、幸せなことだと、今の私は思ったりする。”
“『自分の都合、人の都合』
 みんなそれぞれに自分の都合というものがあるのだろうと思う。人との接触は、自分の都合と人の都合との兼ね合いなのだと思う。そこがうまく歯車が回っていかないと、何もできない。上手くいかない。
 他人との接触がほぼない今の私には、人の都合を慮ることができないかもしれない。人とうまくやっていく自信がない。そうなってしまったのは、流行り病のせいではなくて、自分自身のせいなのだけど、それでも、このままで大丈夫なのか、と不安になったりする。
 人の都合と自分の都合との兼ね合いだけでなくて、自分自身との兼ね合いもある。私はよく、自分に都合よく考えてしまう。実際にはできること、できないこと、したいこと、したくないこと、そういうことをよく混同する。自分の都合に合わせて歪めてしまう。そこには自分の思惑があり、希望があり、願望がある。こうあったらいいな、が自分のありようを歪めてしまう。自分に都合よく考えるとき、何かの辻褄がきっと合っていない。それなのに、私は生きていて、それこそ都合よく生きていて、たぶん、明日も生きる。その綻びはきっとどこかに出ていて、それでさえ自分の都合で見て見ぬふりをしたり、なかったことにしたりしているのかもしれない。あるいは無意識に、あるいは一瞬の短時間で。
 だからなのかもしれない。自分に都合よく考えている人のことを見ると気になってしまう。そんな、自分に都合よく考えても、上手くいかないよ、などと自分を棚に上げて思ってしまう。だけど、自分だってそうなのだ。人のことはつぶさに見えるのに、自分のことは上手く見ることができない。
 現実を見つめること、把握することでしか、何かを歪めずに変えることはできない。自分の都合とは違う現実をきちんと見つめて、向き合って初めて何かをすることができる。自分の都合は邪魔なのだ。そんなこと、知ったことではないと言わんばかりに、関係ないことだ。ただやること、やるべきこと、したいことがあるだけ。それを達成可能かどうかは、自分の都合とは関係ない。いや、大いに関係があるのだけど、自分の都合が邪魔になってはいけない。自分で自分を歪めてはいけない。できないものをできると思ったり、できることをできないと思ったり。多くの場合は、プライドとか、見栄が関係しているのだと思う。このくらいはできなくては、という。現実を見据えていない。自分のできること、できないことを把握できていない。
 あるいは、こういうこともある。自分に都合の悪い考えが目の前に現れると、自分を罰してしまう。そうやって、自分を貶めることによって、自分を歪めている。自分を罰することと、目の前の自分に都合の悪いことは、全く関連・関係がない。自分の発想として、自分を貶めている。そうやって都合の悪いことから目を逸らしているのだと思う。自分を罰することによって、意識はそちらに集中し、罰している自分と罰せられている自分とによって、一杯いっぱいになってしまう。頭の中は罰せられている自分で溢れかえる。そうやって、自分に都合の悪いことは頭の中から飛んでいく。結果として、現実を捉えることはできず、何も解決しないのだ。
 自分に都合の悪いという現実がある。そのことを直視できない。だから自分を歪めてしまう。関係ないことを考えて誤魔化してしまう。忘れようとする。私の頭の中はそうなっている。そうなることで忙しい。
 ひたすらに、現実を捉え続けることでしかない。今、何ができるか。何をするべきか。現実を見据えることでしか、できるものもできないし、やりたいこともやれない。今、何が大事か、ということに焦点が当たっていないと何事もうまくいかない。何を優先するべきなのか。何に力を入れるべきなのか。何に集中するべきなのか。現実を歪めていないか。
 自分の都合、というものが邪魔なのかもしれない。そこに隠れているプライドだとか見栄だとか、このくらいはできないといけない、これは持っていないといけない、あるいは自分の現実はこうであるという都合の悪さは、いつの間にか自分の中に芽生えている自分の都合から来ている。自分の都合というものをうまく無くすことができたら、いろんなことがうまくいくのではないか。なんだってオーケー、なんだってウェルカム、なんだってどんとこい、という気持ちでいたら、現実を歪める必要なんてないし、自分に都合よく考えることもないし、自分に都合が悪いということもない。
 人との関係性もそういう時はうまくいくような気がする。自分の都合を押し付け合うから、うまくいかないのだ。相手に対する配慮を欠き、自分の都合ばかりを優先するから、うまくいかないのだ。自分の都合が通っている時、相手は都合を手放している。だからうまくいくように見えているというだけで、互いが互いの都合を尊重せず、自分のしたいことばかりしていたら、うまくいかない。
 こうあらねばならない、という気持ちは、多くの場合、窮屈だ。それによって現実を歪めるのなら尚更である。どんなものでもそれはそれで良い、という心境になれたら、なんだってうまくいくようになるのではないか。少なくとも、自由である。受け身で生きるという意味ではなくて、そういう状況を作るということだ。この状況でならば、なんだって受け入れるという状況を。場を。人を。そう生きることができるのなら、幸せなことだと、今の私は思ったりする。”
“『自分の都合、人の都合』
 みんなそれぞれに自分の都合というものがあるのだろうと思う。人との接触は、自分の都合と人の都合との兼ね合いなのだと思う。そこがうまく歯車が回っていかないと、何もできない。上手くいかない。
 他人との接触がほぼない今の私には、人の都合を慮ることができないかもしれない。人とうまくやっていく自信がない。そうなってしまったのは、流行り病のせいではなくて、自分自身のせいなのだけど、それでも、このままで大丈夫なのか、と不安になったりする。
 人の都合と自分の都合との兼ね合いだけでなくて、自分自身との兼ね合いもある。私はよく、自分に都合よく考えてしまう。実際にはできること、できないこと、したいこと、したくないこと、そういうことをよく混同する。自分の都合に合わせて歪めてしまう。そこには自分の思惑があり、希望があり、願望がある。こうあったらいいな、が自分のありようを歪めてしまう。自分に都合よく考えるとき、何かの辻褄がきっと合っていない。それなのに、私は生きていて、それこそ都合よく生きていて、たぶん、明日も生きる。その綻びはきっとどこかに出ていて、それでさえ自分の都合で見て見ぬふりをしたり、なかったことにしたりしているのかもしれない。あるいは無意識に、あるいは一瞬の短時間で。
 だからなのかもしれない。自分に都合よく考えている人のことを見ると気になってしまう。そんな、自分に都合よく考えても、上手くいかないよ、などと自分を棚に上げて思ってしまう。だけど、自分だってそうなのだ。人のことはつぶさに見えるのに、自分のことは上手く見ることができない。
 現実を見つめること、把握することでしか、何かを歪めずに変えることはできない。自分の都合とは違う現実をきちんと見つめて、向き合って初めて何かをすることができる。自分の都合は邪魔なのだ。そんなこと、知ったことではないと言わんばかりに、関係ないことだ。ただやること、やるべきこと、したいことがあるだけ。それを達成可能かどうかは、自分の都合とは関係ない。いや、大いに関係があるのだけど、自分の都合が邪魔になってはいけない。自分で自分を歪めてはいけない。できないものをできると思ったり、できることをできないと思ったり。多くの場合は、プライドとか、見栄が関係しているのだと思う。このくらいはできなくては、という。現実を見据えていない。自分のできること、できないことを把握できていない。
 あるいは、こういうこともある。自分に都合の悪い考えが目の前に現れると、自分を罰してしまう。そうやって、自分を貶めることによって、自分を歪めている。自分を罰することと、目の前の自分に都合の悪いことは、全く関連・関係がない。自分の発想として、自分を貶めている。そうやって都合の悪いことから目を逸らしているのだと思う。自分を罰することによって、意識はそちらに集中し、罰している自分と罰せられている自分とによって、一杯いっぱいになってしまう。頭の中は罰せられている自分で溢れかえる。そうやって、自分に都合の悪いことは頭の中から飛んでいく。結果として、現実を捉えることはできず、何も解決しないのだ。
 自分に都合の悪いという現実がある。そのことを直視できない。だから自分を歪めてしまう。関係ないことを考えて誤魔化してしまう。忘れようとする。私の頭の中はそうなっている。そうなることで忙しい。
 ひたすらに、現実を捉え続けることでしかない。今、何ができるか。何をするべきか。現実を見据えることでしか、できるものもできないし、やりたいこともやれない。今、何が大事か、ということに焦点が当たっていないと何事もうまくいかない。何を優先するべきなのか。何に力を入れるべきなのか。何に集中するべきなのか。現実を歪めていないか。
 自分の都合、というものが邪魔なのかもしれない。そこに隠れているプライドだとか見栄だとか、このくらいはできないといけない、これは持っていないといけない、あるいは自分の現実はこうであるという都合の悪さは、いつの間にか自分の中に芽生えている自分の都合から来ている。自分の都合というものをうまく無くすことができたら、いろんなことがうまくいくのではないか。なんだってオーケー、なんだってウェルカム、なんだってどんとこい、という気持ちでいたら、現実を歪める必要なんてないし、自分に都合よく考えることもないし、自分に都合が悪いということもない。
 人との関係性もそういう時はうまくいくような気がする。自分の都合を押し付け合うから、うまくいかないのだ。相手に対する配慮を欠き、自分の都合ばかりを優先するから、うまくいかないのだ。自分の都合が通っている時、相手は都合を手放している。だからうまくいくように見えているというだけで、互いが互いの都合を尊重せず、自分のしたいことばかりしていたら、うまくいかない。
 こうあらねばならない、という気持ちは、多くの場合、窮屈だ。それによって現実を歪めるのなら尚更である。どんなものでもそれはそれで良い、という心境になれたら、なんだってうまくいくようになるのではないか。少なくとも、自由である。受け身で生きるという意味ではなくて、そういう状況を作るということだ。この状況でならば、なんだって受け入れるという状況を。場を。人を。そう生きることができるのなら、幸せなことだと、今の私は思ったりする。”
“『彼といたら地獄も』
 正月早々、歯痛になった。
 もう、最悪。
 彼と会う約束も、台無し。私はご機嫌斜めで彼と会う羽目になった。我慢するにはするのだけど、何をしていても、歯がじんじんと痛む気がして落ち着かない。年越し蕎麦も、お節もお餅も、この痛む歯で食べた。
「歯が痛むの、助けて……」
 私は、どうしようもないことを彼に言ってしまった。痛いことを訴えたところで、私が悪いし、彼にはどうしようもない。どうしろというのだろう。こんなこと言って。でも、彼は優しかった。
「あ、そう。じゃあ、今日の映画は無しにしようか。集中できないでしょう。代わりに、話を聞いてあげる」
 私は悔しかった。年の初めからこんなことになるなんて。デートが台無しだ。でも、それを正直に言えてよかった。虫歯は彼のせいではもちろんないし、私の機嫌が悪いのも彼のせいではない。今日はもう帰りたいと思った。そのくらい痛かった。それでも彼は帰してはくれなかった。彼の目を一目見て、それでいいと思っていたのだけど、どんどん気分が変わっていった。晴れやかに。楽しくなってきた。
「歯、痛む?」
 彼はときどき聞いてくれた。その度に大丈夫と応えていた。不思議と大丈夫な気がした。真冬の寒空ではどこも寒い。かと言って喫茶店にいることもできなかった。コーヒーが沁みる気がしたから。とにかく口から離れたかった。意識を飛ばしたかった。ときどき、苦痛に歪む顔をしているような気がする。ブサイクだ。きっと。
「そんな顔しないで? 大丈夫?」
 苦虫を噛み潰したような顔をきっとしていたのだろう。私はハッと我に返った。今まで、こんなに間の悪いことはなかった。私はいつだって気前が良くて、気立てだって良くて、しっかりした自分を演じていた。それがうまくいかなくなっていた。私はとぼけていた。もう、どうにでもなってしまえと思った。こんな自分、可愛くない。そう自分を責めた。お正月だし歯医者もやっていない。サイアク。それ以上に、彼との時間を大事にしたかった。したかったのに。
「ごめんね、今日はもう帰ろうかな。帰って寝るよ」
「疲れてるんならそうしなよ。歯が痛いのなら、もう少し付き合って。大丈夫だよね。ごめんね」
 私たちはそうやって互いに謝ってから、また歩き出した。私の手を握る彼の手が暖かかった。それから、フードコートのベンチに座って、二人で喋ったのだった。彼といられて嬉しかった。彼との時間は他の時間とは違っていた。歯痛はあったけれど、なんとかなっていた。会話に夢中で、なんとかなっていた。だんだんといつもの調子になってきて、自分を取り戻した気持ちになった。彼に、感謝した。こんな自分でも受け入れてくれる彼でよかった。何度も帰る、と言ったけれど、帰らなくてよかった。こんな時間を過ごせるのなら、また歯痛になってもいいかな、なんて思った。地獄にいても、彼となら楽しかった。”
“『彼といたら地獄も』
 正月早々、歯痛になった。
 もう、最悪。
 彼と会う約束も、台無し。私はご機嫌斜めで彼と会う羽目になった。我慢するにはするのだけど、何をしていても、歯がじんじんと痛む気がして落ち着かない。年越し蕎麦も、お節もお餅も、この痛む歯で食べた。
「歯が痛むの、助けて……」
 私は、どうしようもないことを彼に言ってしまった。痛いことを訴えたところで、私が悪いし、彼にはどうしようもない。どうしろというのだろう。こんなこと言って。でも、彼は優しかった。
「あ、そう。じゃあ、今日の映画は無しにしようか。集中できないでしょう。代わりに、話を聞いてあげる」
 私は悔しかった。年の初めからこんなことになるなんて。デートが台無しだ。でも、それを正直に言えてよかった。虫歯は彼のせいではもちろんないし、私の機嫌が悪いのも彼のせいではない。今日はもう帰りたいと思った。そのくらい痛かった。それでも彼は帰してはくれなかった。彼の目を一目見て、それでいいと思っていたのだけど、どんどん気分が変わっていった。晴れやかに。楽しくなってきた。
「歯、痛む?」
 彼はときどき聞いてくれた。その度に大丈夫と応えていた。不思議と大丈夫な気がした。真冬の寒空ではどこも寒い。かと言って喫茶店にいることもできなかった。コーヒーが沁みる気がしたから。とにかく口から離れたかった。意識を飛ばしたかった。ときどき、苦痛に歪む顔をしているような気がする。ブサイクだ。きっと。
「そんな顔しないで? 大丈夫?」
 苦虫を噛み潰したような顔をきっとしていたのだろう。私はハッと我に返った。今まで、こんなに間の悪いことはなかった。私はいつだって気前が良くて、気立てだって良くて、しっかりした自分を演じていた。それがうまくいかなくなっていた。私はとぼけていた。もう、どうにでもなってしまえと思った。こんな自分、可愛くない。そう自分を責めた。お正月だし歯医者もやっていない。サイアク。それ以上に、彼との時間を大事にしたかった。したかったのに。
「ごめんね、今日はもう帰ろうかな。帰って寝るよ」
「疲れてるんならそうしなよ。歯が痛いのなら、もう少し付き合って。大丈夫だよね。ごめんね」
 私たちはそうやって互いに謝ってから、また歩き出した。私の手を握る彼の手が暖かかった。それから、フードコートのベンチに座って、二人で喋ったのだった。彼といられて嬉しかった。彼との時間は他の時間とは違っていた。歯痛はあったけれど、なんとかなっていた。会話に夢中で、なんとかなっていた。だんだんといつもの調子になってきて、自分を取り戻した気持ちになった。彼に、感謝した。こんな自分でも受け入れてくれる彼でよかった。何度も帰る、と言ったけれど、帰らなくてよかった。こんな時間を過ごせるのなら、また歯痛になってもいいかな、なんて思った。地獄にいても、彼となら楽しかった。”
“『楽しもうとすること』
 楽しもうとすること。楽しいことは、待っていてもこない。自分で作るか、取りに行くかしなくては享受できない。まれに降ってくることもあるようだけど、少なくとも私にはない。楽しみに対する積極的な姿勢を取れずにいる。ここ数年。心のどこかで私なんかが楽しんでいいのだろうかと思っているような気がする。どうあっても、私なんか、がついてまわる。だから、楽しもうとすること。
 私はこの年になるまで、人生を楽しむことができなかった。今でも楽しめてはいない。人生で最高の一年なんてきそうにはないし、一日だって怪しい。どうでもいいことを考え、何もせず、ただ生きている。生きているだけましなのかもしれない。楽しみはあまりに少なく、生きているのが不思議なくらいだ。趣味も特技もない。ただ日常があるだけ。これといって特徴のない、ただの人でしかない。目標に向かって努力することもしていないし、するつもりもない。そもそも目標がない。楽しそうな目標を人参にして馬のように走ることができたらどんなにいいだろうと思う。積極性が足りないのだ、どうにも。
 ただ一つ、熱中できることといえば、書くことくらいで、それだって楽しめているつもりになっているだけで、実際にはなんの実にもならない不毛の果実でしかない。書いてなんの意味があるのか、自分でも疑問だけれど、書くことだけは続いている。駄文を積み重ねても、それなりの達成感によって自分を駆動しているだけのような気がする。書くことで得られる楽しみはあまりに少ない。せいぜい書いている間の充実感だけである。書くことに時間を費やしているという不毛さには気にも留めず、書いて自分の内部が引っ張り出され、構築されていくことに酔っている。それだけなのだと思う。そうして自分のことがわかった気になる。実際には、人間とは人と人との関係である。自分一人で何かがわかった気になるのは不毛なのだ。自分との関係でしか語れないのだから。せいぜいが過去の自分について考えることが関の山。それだってやはり不毛なのだ。過去の自分の状況は今とは違うかもしれない。安心したいだけなのだ。自分をなぞることによって。今を楽しんでいないという現実がずっとある。今、ここ、がないのだ。何かを楽しんでいる自分がいないのだ。ずっと自分を見失っている気分だ。
 書くことを、もっと楽しめないだろうか。もっともっと積極的に。今、ここ、の自分を充実するような楽しみ方ができたらいいのにと思う。そのためには圧倒的に書くことが必要だろうし、生半可な気持ちではできないだろう。何かを賭して本気で書かなくてはいけない。すべてを楽しみのために。自分を従えて。
 書いたものを、読んだ人が楽しんでくれることほど、うれしいことはないのです。その上、自分も楽しめたら、言うことはない。その文章に関わる人すべてが幸せになるように今年も願います。きっと、ヒントはそこら中にある。それを掴んだときに、どうやってそれをものにするか、表現するか、にかかっている。書くことは永遠と続く。どこかに迷い込まないように。また、今日も。”
“『愛のある振る舞いをいつだってされたいと思っている』
 私は、愛のない行動を受けることが多かった。その結果、社会からあぶれてしまっているのが、今の現状なのだと思う。人をそもそも信じていないような感じがするし、愛を感じることが少なかった。だからといって、人に対して愛のない行動をするかというと、そうでもない、かもしれない。自信はない。愛のある行動をしたりしなかったりなのだろう。相手によるかもしれない。
 私は、常識というのが怖い。常識から外れた、まともではない行動をする人間には、愛のない振る舞いをしてもいいというのが、人類の掟みたいなものなのかもしれない。
 私は、まともではなかったかもしれない。何もかもがまともな人間なんているんだろうか。常識というのが怖い。恐れている。常識を守らなくてはいけないという人の目が怖い。そして、それから外れた人間に対する愛のない振る舞いが怖い。
 私はある人たちから、愛のない行動をしても構わないという烙印を押されていたし、それが全てではないとわかっているつもりではあるのだけれど、結果として社会からあぶれてしまった。愛のある振る舞いをしてもらうにはどうしたらいいのか、いまだによくわからない。
 時々、愛のある振る舞いをしてくれる人は現れていた。だから、私は今も生きているのかもしれない。かろうじて、だけれど。愛を知らないわけではない。だけど、いつだって愛されるという確信を持てない。群れの掟に従わなければ、愛のある行動をしてもらえないのだろうか。私は、不幸にも群れの掟を守れないことがあった。自分の嗜好のせいであると思う。自分の流儀が、少し人と違っているせいなのだと思う。やはり、常識は怖い。流行りの音楽、俳優、アイドル、お笑い、そういうものに興味がなかった。そういう結果として、愛のある振る舞いをしてもらえないことがあった。それだけのことと言ったら、それまでなのだけど、自分のフィットする群れを探すのに難儀した。この世界の、どこかにはあるのかもしれない。私は一つの群れにフィットしなかったからと言って、それだけで社会から阻害されている気分になっている。人生って、自分にフィットする群れを探し続ける旅のように感じてる。今は、そういう希望を持って生きている。相変わらず常識は怖いし、常識って群ごとにあったりする。それを素早く察知してフィットしていく柔軟さが私にはない。自分を変えることが難しい。自分の嗜好みたいなものがあって、その流儀を変えることが難しかったりする。自分の心地よさの方が、群れにフィットするよりも大事なのかもしれない。
 自分の心地よさをうまく表現して、生きていくことができたらいいのだけど、今のところそういう手立てはない。技術がないし、媒体も浮かばない。自分のように、居心地の悪さを感じて生きている人たち。群れにフィットしないことに怯えながら、それでもなんとか愛のない振る舞いの中で生きている人たち。愛さえあればいいと思う。私は不幸なことに、愛のない人たちと出会って時を過ごしてしまった。それだけのこと。私に愛を与えてくれる人が必ずいる。そういう場が必ずある。なるべく常識内に納まろうと努力しつつ、今日もフィットする群れを探そうとできたらいいのに。群れから外れ、独りでいる自分は、その務めを怠っている。フィットしたいと思える魅力的な群れはなく、常識は今日も怖い。一人でいる方がずっと楽になってしまっている。
 群れにフィットできない自分を、肯定できずにいる。そうやって、自己肯定感は削られていく。それが良いことなのか悪いことなのかも判断できずに、どうでもいいこととして、独りで生きてしまっている。生きれてしまっている。そうやって、愛からまた遠ざかっていくのだと思う。愛のある振る舞いを享受できないということが、私を苦しめている。そうやって孤独は深まり、またサイクルしていく。
 間違いないことは、愛を、心のどこかで求めているということだ。それだけは確かだ。愛の心地よさを知っている。愛のある振る舞いをいつだってされたいと思っている。このサイクルを断ち切るためには、群れの中に飛び込んで、順応していくしかない。それだけの柔軟さを、自分に課さなくてはいけない。そう思える魅力的な群れが、見つかると良いのだけど。今のところ、群れというものがそもそも自分には見えていない。そのくらいに、孤独は深まってしまっているのだと思う。”
“『あらゆる言い訳を払拭した先にある、私が隠し持っている本当のしたいことについて』
 言い訳をしている自分というのがいる。自分のしたいことがあるとして、それに向かわないことはすべて自分に対する言い訳である。どんなに言葉を尽くしても、どんなにそれが必須のことであったとしても、自分のしたいことに向かわないのなら、それは言い訳に過ぎない。
 私には、あまり、したいことがないかもしれない。けっこう無欲なほうだ。それでも言い訳をしてしまっている。ふと思いつくことは、大抵が自分をおとしめるようなことで、自分をけなすことによって自分なんかがと思い、そうやっていろんなことに対する意欲を失う日々だ。これだって、言い訳なのだと思う。自分の自発的なものではないにせよ、自然と湧いてきてしまう思考そのものが、言い訳めいている。生きることに向かわないこと、活き活きと前向きでないことのすべては言い訳なのかもしれない。したいことをしないための、生きることをしないための。
 生きることについて、どっちでもいいと思ってしまっている。言い訳ですらどうでもいいと思うことがある。生きることの邪魔をする、いろんな思考が私の中に渦巻いているけれど、それらは生き切らなくていいという言い訳なのだ。日々を生きていることに変わりはない。それなりに生活だってある。だけど、やはり、言い訳をしている。
 自分のやることなすことをどう思っているのか。下らないことをしているのではないか。そう思ったりする。どうでもいいことばかりしているような気になる。それだって生活のため、と思えば必須のことに感じる。だけど、本当にそうだろうか。言い訳しているんじゃないか。そう思ったりする。頑張らなくていいなんて、自分が決めていることだ。生き切らなくていいなんて、自分が決めているのだ。そのために言い訳を用意している。
 すべての言い訳を払拭することさえできたら、もっといろんな自分というのが見えてくる予感がする。あるいはそうだといいなと思う。そうできたらな、と。いろんなしがらみがある。湧いてくる思考のほとんどは言い訳である。あるいは妨害である。自分がうまく生きようとすることに対する。行動も、怠惰も、もうありとあらゆることが言い訳めいてくる。何をしたって、言い訳しているような気になってくる。あるいは、考えることも。
 私は、たぶん、自分のしたいことを心の奥底に隠し持っている。だから生きている。あるいは、生きることをやめない。生活することをやめない。そして、それに対する言い訳をしていることに気がついている。隠すことそのものが言い訳であり妨害なのかもしれない。そこに向かわないための。チャンスをうかがっているわけでもない。ただただ、自分をごまかして生きているだけなのだ。私にはどうしてもしたいことがある。あるいは、なりたい自分というのがあるのだ。それに向かわないのには理由があるんだろう。たぶん、人生上のトラウマ的な何かによって。あるいは性格なのか、はたまた病気なのか、障害なのか。
 どこにも向かっていない人生を生きている。人生は長いようで短いかもしれない。というか、自分で長さを決められるものではない。猶予は少ない。言い訳ではない行動が頻発するようになったら、私はどこかに向かっているのだろう。私は気がつくはず。私が真にやりたいことに。人生の真の意図を隠し持っているだけでなく、あらわにし、それを実行しようとひたむきに努力できるはず。言い訳はいくらでもできる。しかし、真の人生はたぶん、一つしかない。自分の隠し持っている、その欲望に気がつくことができるか。人生の充実はそこにかかっているのかもしれない。あるいは、すべての言い訳を払拭して行動する先にある、自分の選んだ道が、それが私の本道になるんだろう。一つの正しさに向かっていくというよりは、自分の選んだものを正しくしていくのが、本当にしていくのが、人生なのかもしれないと思う。”