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今回は、第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの『自省録』を取り上げます。MITのThe Internet Classics Archiveでは、『自省録』の全文が掲載されています。

彼は、正しい行ないは自分の中から自然に起こるべきものであり、周囲の環境によって無理やり引き出されるべきものではないと考えていました。

どんな行ないも、自分の意思に反して為したり、自分本位に為したりすべきではない。吟味せずに、あるいは矛盾する動機を持って為すべきでもない。きれいな衣装で自分の考えを飾り立ててはならない。余計な言葉や行動を慎む。

さらには、お前の内なる神をして、男らしく成熟した、政治家でローマ人で支配者でもあるお前の主たらしめよ。お前はその地位を、人生からの撤退を待ち、出立の準備を整えていた兵士のごとく、誓いや証人を必要とせずに、手に入れた。快活な態度を保ち、外の助けや他者が与える平和を必要としないようにせよ。

お前がやらねばならないことは、まっすぐに立つことであり、まっすぐに立たされることではない。

『自省録』第3巻 第5章

アウレリウスはこの考えを、第7巻でも繰り返しています。

まっすぐに立つか——もしくは立たされるか

『自省録』第7巻

別の訳をすればこうなります。「人間はまっすぐ立つべきで、まっすぐ立たされるべきではない」と。

言葉が意味すること

アウレリウスが書いていることはほとんどがそうですが、ここでも彼は、自分に向かって語っています(「男である」とか「ローマ人である」など)。それでも全体的には、ほかの人にとっても役に立つことです。「善人であれ。だが、そうしなければならないからとか、何らかの利益になると思うから、という理由でやってはならない」

彼の言う「善人であること」は、ここで徹底的に説明されています。物事を、「自分の意思に反して、自分本位に、吟味せずに、あるいは矛盾する動機を持って」為してはならない。ほかの人を利用するために、あなたの考えや言葉を「きれいな衣装で」ごまかしてはならない。物事に干渉してはならない。常に前向きで、自立を保つ。とても簡単に聞こえるでしょう。

しかし大切なのは、善人であることではなく、なぜそうするのかです。理由などなしに、善人であるべきなのです。単に何が正しいかということです。そしてアウレリウスは、善の普遍的な力に仕える兵士のように、死が訪れる日まで、その義務を追求せよと説いています。

そこから何を得るか

あなたが善人をどう定義しようとも、アウレリウスにとっては、善人であるだけでは不十分です。「善人であること」は、あなたの存在の本質でなければなりません。何があろうと、あなたが選び、実行することなのです。あなたは自分にこう言わなければなりません。「私は善人になる。私はまっすぐに立つ。無理やりまっすぐ立たされるのではない」

考えてみてください。ただトラブルを避けるために、ルールを破らないために、善人であったことが多かったのではありませんか。あるいは、自分の虚栄心に訴えるためとか、心のどこかで、自分の利益になるだろうとわかっていたから、という理由ではどうでしょう。あなたが善人であることを選ぶのは、それが正しいことだとわかっているからでしょうか。あるいは、そうしなければならないと思うから善人でいるだけでしょうか。

死後の世界を舞台にしたTVドラマ『The Good Place』を、観たことがありますか。このドラマの中心的なテーマのひとつがこれです。たとえばあなたは、慈善活動や周りの人の利益になることをして、生涯を過ごしたとします。でも、名声や栄光を得るためにそうしただけだとしたら、どうでしょう。あるいは、あなたの近くにいる誰かよりも目立つことが目的だったら。あなたの「善行」のすべては、もはやそれほど善いものにみえなくなるのではないでしょうか。

Image: Wikimedia Commons

Source: The Internet Classics Archive

Patrick Allan - Lifehacker US[原文