よくも悪くも東芝にはいない、異色の人材だった(写真は2009年1月の会見で。撮影:風間仁一郎)

東芝で会長や社長を歴任した西田厚聡(にしだ・あつとし)氏が2017年12月8日に死去した。急性心筋梗塞だった。享年73歳。

西田氏と東芝の出会いは、イランの東芝子会社(照明ランプ生産)から。1943年生まれの西田氏は当時すでに29歳だった。イラン法人で「やり手」との評判を得て、31歳で東芝に入社。その後、海外営業で頭角を現し、ノートPC「ダイナブック」を一時はシェア世界1位にするなど、辣腕を発揮する。しかし、東芝のような歴史のある企業で、私大文系卒かつ31歳で中途入社の西田氏が社長になれたのは、本人の実力のほか、「私大文系卒」「国際営業畑」という共通項のある、故・西室泰三元会長・社長の”引き”があった。

社長は日立が「東大工学部」、東芝が「文系」

人には個性や性格があるが、法人である企業にもある。企業は組織文化(社風)を土台に、電力や家電、IT、半導体、鉄道車両などの事業文化が混在する、共和国のような存在だ。総合電機メーカーである東芝と日立製作所は、長年ライバル視されてきたが、社風は正反対。東芝は「お公家さん」あるいは「商人」と呼ばれてきた。日立は「野武士」。古代ギリシャでたとえると、東芝は戦争だけではなく、学問や商業、芸術など、間口の広いアテネで、一方の日立は、戦闘集団に特化したスパルタか。東芝と付き合いがあった人物は「東芝社員は視野が広く、出しゃばらない人が多く、みなさん感じがいい」と異口同音に語る。

歴代社長も選抜の基準が異なる。

日立は国立理系=工学部から。創業者である小平浪平の方針に従い、「東京大学工学部卒」を理想とする。たとえ東大法学部卒でも、文系は社長になれない不文律がある。ある日立OB(一橋大学卒、経理部門を歴任)は、「工学部卒の社長を文系の経理部門や営業部門が支える構造になっている。文系は入社時から『日立では社長になれない』という覚悟をしながらしっかり仕事をする」と振り返る。

片や、東芝の歴代社長19人のうち、11人が文系。西田氏を社長に抜擢することで、東芝”解体”の遠因をつくったといわれる西室氏は、東芝初めての私大文系(慶応義塾大学経済学部卒)社長だ。とりわけ国際派としても知られる。

ところが、その後の経緯は、広く報道されているとおり。西室氏が後継社長に選んだ西田氏(早稲田大学第一政治経済学部卒、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了)と、佐々木則夫氏(早稲田大学理工学部卒)のコンビが、米原発企業ウエスチングハウス(WH)の買収を決断し、その後WHなどの損失を隠すための”決算操作”に手を染めたとされることから、今日の東芝解体をもたらした張本人とされる。

西田、佐々木両氏は、伝統的な東芝の社風からは離れた、個性的な人物だ。ここではとくに佐々木氏に触れないが、佐々木氏も「独身を貫き、社長になるまで、母親と2人で都営住宅に住んでいた」(東芝OB)。ビッグビジネスの社長としてはやはり個性派である。

早大卒業後、西田氏は東大で、ドイツの難解哲学者フッサールを学んだことから、内外で”哲人”社長とも呼ばれ、「始めに言葉ありき」という新約聖書のフレーズを普通に語る教養人。まさに哲人社長にふさわしい。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、国家の指導者には哲人が望ましいと語るが、その考えは西洋哲学の基調になった。かのカール・マルクスも、来るべき共産主義社会では、哲人が指導者になるべきだと考えた(哲学者ハンナ・アーレントの解釈による)。

「あのとき、イランにいなければ…」

ある東芝OBは「独創的すぎる人物を社長にしてはいけない。せいぜい部長か平取締役まで」と強調する。そして「あのとき、西田氏がイランにいなければ……」と慨嘆する。

歴史に「if」(もし)は許されないし、因果関係が成立するかも疑問だ。だが、あえてここで、西田氏とイラン、東芝との出会いを振り返ってみたい。西田氏はイラン人の夫人を持ち、イラン関係者や日本のイラン研究者、文化愛好家からは「出世頭」として著名だった。

イラン北部カスピ海に面した一帯は、ギーラン地方と呼ばれる。首都テヘランからはエルブルース山脈を越えてギーランに出る。直線距離はそれほどではないが、5000mを超える最高峰を持つエルブルース山脈を、車で曲道をくねって越えることは、かなりの緊張をもたらす。第2次世界大戦中は、米国が(ドイツと戦う)ソ連へ援助物質を運ぶ、主要ルートの1つだった。多くのトラックが谷底に落ちた。

ギーラン地方に入ると、風景はそれまでと一変する。カスピ海に面したギーラン地方は、イランのほかの地方にない、雨の多い湿潤地帯である。稲作が盛んだ。水田と茅葺きの農家があり、日本の農村風景に似ている。

そのギーラン地方の中心都市はラシュト。現在人口64万人の都市である。このラシュトに、イラン政府と東芝のランプ(電球)と扇風機など、電気製品の合弁会社「パールス・東芝」ができたのが、1971年だった。

1963年に始まったシャーの白色革命は、イランの近代化を目指した。その1つに工業化があった。白色革命の理念に共感し、イラン進出を決めたのが、故・土光敏夫氏(1965年から1972年まで東芝社長)だった。パールスとはペルシャという意味である。パールス・東芝の構成は、社長と工場長と課長が日本人、部長はイラン人。そのほかモハンデスと呼ばれたイラン人技術者と日本人技術部があり、それ以外はグループリーダーを含め、全部イラン人だった。ラシュトには日本人30人が住み、小規模ながら日本人社会ができたのである。

パールス・東芝の給料は高く、イラン人にとっては魅力の職場だった。従業員1000人規模で発足した工場に、イラン各地から応募者が集まる。そのパールス・東芝に、1973年に入社した日本人社員がいた。後に東芝社長になる西田氏だ。

西田氏はイラン人を妻に持ち、イランに住んでいた。当時すでに29歳。西田氏をパールス・東芝に紹介したのは、社長秘書を務めていた西田氏の妻だった。

その西田氏の妻は、東大大学院在籍中に同じ修士課程にいた、1年先輩の西田氏と結婚している。後に西田氏とともにイランに戻るが、イラン人とのコミュニケーション(ペルシャ語)に苦しんでいたパールス・東芝にとって、現地の有力者とのコネがあり、頭が切れ、東大大学院にも留学、日本語に堪能な西田氏の妻は、渡りに船の人材だった。西田氏は東芝子会社から東芝生活を始めたことになる。そこで持ち前の才覚を発揮し、日本人とイラン人の心をつかみ、1975年には東京芝浦電気(現東芝)本社に引き上げられる。すでに31歳になっていた。

本来は学者コースを歩んでいた

その後トントン拍子の出世をし、2005年に社長に就任する西田氏だが、20歳代の経歴は、経営者というより、学者になるほうがふさわしいコースを歩んでいた。

1943年、三重県に生まれた西田氏は、1968年に早大を卒業。その後、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程に入り、1970年に修了している。ゼミの担任は、政治学の権威といわれた福田歓一教授だ(1923〜2007年)。東大法学部卒業生でも入るのが難しい名門ゼミといわれた。

岩波書店が刊行する月刊誌『思想』は、その筋では権威ある雑誌として知られる。実は1970年8月号に当時の西田氏は、「フッサール現象学と相互主観性」という論文を寄稿している。ただの大学院生の論文を、『思想』は掲載しない。恩師・福田教授の編集部への推薦があったと想像される。ドイツ語で論文を読み、書く、期待された弟子なのだ。博士課程でドイツの哲学者フィヒテをテーマに研究していた

後に西田氏がなぜ、学者コースから外れたか、筆者には不明である。夫人を追い、イランのテヘランに移り、東芝子会社に入社する。

東芝の海外営業時代には、米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長と親密な関係を結んだ。ノートPCを売るため、海外の販売会社の経営者夫妻に高級ワインを贈るなど、腕力だけでなく、気配りにもたけていた。西田氏は持ち前の剛腕と気配りで、お公家さん集団と揶揄される東芝をねじ伏せた、”哲人”社長でもあった。

経営危機の原因とされるWH買収も、2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故が起こらなければ、違った展開になっていたかもしれない。無理な「チャレンジ」の要請で、PC事業の利益操作なども引き起こしたとされるが、もしオルタナティブ・ヒストリー(別の歴史)があれば、西田氏は今日、東芝”中興の祖”と称えられたはずだ。新約聖書をそらんじる西田氏なら、「神の摂理」というキリスト教用語や「すべてはアッラーの意思による」というイスラム教の運命観を知っており、自己のとてつもない成功と失墜の運命と重ね合わせたはずだろう。

参考文献:『カスピ海の空はむらさき色―イランに暮らした日々』(日本放送出版協会、ハギィギィ志雅子著、1987年)