あなたを地上の星にする男

世界一のソウルブランディングプロデューサー

井上祐宏です\(^o^)/

 

今日は父の日ですねえええ!

 

私の父のお墓は、茨城県の茎崎霊園というところにあります。

最近、ちょっと行っていないので、帰国したらお参りに行こうと、今思いました。

 

さて、このブログで何度か紹介させて頂きましたが、

 

父と私との物語

 

という父の魂に捧げる映像を、昨年9月22日開催した

「明日は我が身だ!ストップ・ザ・介護殺人!」という

イベント企画を推進する中で制作しました。

 

父の日の今日、改めてこの映像をご紹介すると共に、私自身も改めて視聴してみようと思います。

 

★父と私との物語―9月22日「ストップ・ザ・介護殺人!」をなぜ開催したのか? 

 

 

今見終わりました…・

 

いやあ、感慨深い!

 

極めて深く…。

 

この映像の全文が下記です。

興味があるけれど、映像を見る時間が無い

という方は、下記文章をご高覧ください。



父と私との物語―9月22日「ストップ・ザ・介護殺人!」をなぜ開催したのか?

映像作品「私と母との物語」
を制作した翌々日、久しぶりに父の墓参りに行きました。
父の墓の前で祈りを捧げていると「父と私との物語」を作ろう…。
自然とそう思えました。

物心がついた二歳の頃、私は伯父の家にいました。
両親が離婚し、父が私を引き取り、伯父の家に身を寄せたのです。


やがて父と伯母の折り合いが悪くなり、私が八歳の頃、
父と私は伯父の家を出て父と私の二人暮らしが始まりました。
私が小学校四年生の頃、父が心筋梗塞で倒れました。
一命は取り止めたものの、狭心症という心臓病になってしまいました。
それ以後の父の口癖は

 

「お父さんはいつ死ぬかわからない。でもお父さんが死んでも、お前は大丈夫なようにちゃんとしてあるから、心配はない」
 

でした。
 

そう言われても私には父が死ぬことが想像できませんでした。
 

中学校に入ると、通い始めた学習塾と相性が良かったのか、なぜか成績が急上昇し、有名高校の入試に受かることができました。
 

私の前では見せなかったのですが、そのことが父は凄く嬉しかったらしく、ずいぶん知り合いには自慢していたそうです。
 

私にはいわゆる反抗期というものはありませんでした。
内容ははっきりと覚えていませんが、父とはよくいろんな話をしていました。

 

私が17歳の頃、父はくも膜出血で倒れました。
 

奇跡的に一命は取り止めましたが、もう第一線で働くことはできなくなってしまいました。
 

もう一度くも膜出血が起きたら多分助からない、と父から
告げられましたそう言われても私には父が死ぬことが想像できませんでした。

 

17歳の終わりに精神世界というものに遭遇した私は、それまでの人生観が180度変わってしまいました。
 

それについて父に語っても、父には理解できません。
 

またそれからすぐに私に四歳年上の恋人ができたことも、父にとってはもの凄い心配の種だったと思います。
 

私が20歳になる24日前の2月1日、ある寒い冬の日、私は友人たちとの会合に出かけました。
 

その会合が盛り上がってしまい、夕方家に電話をして「お父さん、今日は遅くなるから、ごめん」と父に言うと「気にしないでゆっくり帰ってきなさい」と父はやさしく私に言いました。
 

家に帰ると、父が布団の上に突っ伏していました。

明らかに様子が違います。
触ると冷たくて、もう死後硬直していました。
父の体をひっくり返すと、父の顔はうつぶせの状態で圧迫されていたため、ひどくゆがみ、口角から血の泡がわずかに吹き出しました。

 

私は驚きました。しかし一方で妙に冷静な自分もいました。
 

父が死んだことははっきり分かったのですが、動転はしていても、悲しいとかそういう感情はやってきません。
 

「たった一人の父が死んだのに悲しさが込み上げてこないとは、自分はなんて情け知らずの人間なのだろうか…」
 

そんな風に考えている自分もいました。
 

119番に電話して救急車を呼び、救急隊員によって死亡が確認されました。
 

父が死んだ数日後のある夜、突然、父の様々な思い出が押し寄せるように甦ってきて、涙が溢れ出しました。
 

その時、つくづく心底思い知りました。
 

「親孝行、したいときには親は無し」というコトバが真実であることを…。
 

私にとって父は空気のような存在…。
その父がいなくなることがどういう意味を持つのか、それは父が現実に死んだときにしか、絶対に分からない。
だからどんなに親孝行したところで、親が死んだときに、「もう十分やった」とは絶対に思えないだろう、と思いました。

 

父が死んだ後に、父の知人の方から、父がこんなことを言っていた、と聞きました。
 

「あいつのやっていることが私にはもう理解できない。でも親として息子が20歳になるまでは責任がある。20歳になったら、もう私は息子には何も言わない。彼の人生だから…」
 

父はきっととても寂しい思いをしていただろうことは、私も薄々は感じていました。
 

父はすべてを私に捧げたと言っても良い人生だったと思います。
 

そして私が二十歳になる直前に、まるで「自分の役目はもう終わった」とでも言うように、亡くなったのです。
 

父が死んでいる姿を見たとき、私が感じたのは、「もう父はここにはいない」ということ…。
 

それがはっきりと感じられました。
 

私は生まれて初めて「人って死ぬんだ」ということを実感しました。
 

それからの数週間、私の中に繰り返し襲ってくる思いがありました。
 

「人は死ぬ。私も次の瞬間でさえ死ぬかもしれない」
 

その思いを味わっていると、自分の中がものすごく静かになっていきました。
 

その静けさを味わいながら、知人と会っていると、私はただ黙っているだけなのに、どんどん相手が本心を打ち明けてくるのです。
 

私の内側の沈黙が、不思議とその人の心を開かせたのだと思います。

今、延命治療がもたらす功罪について知った私が34年前の父の死について思いを馳せると「父は運が良かったな」とつくづく思います。

 

もしも父が植物人間のような状態になっていたら、絶対に延命治療を施す選択を私も周りもしていたでしょう。
 

人が自然なカタチで臨終を迎えた際、ほとんど苦しみがなく死ねるように人間の体の仕組みがなっていることを、私も最近知ったばかりです。
 

「事実を知らない」というだけで、最も大切な人を苦しませてしまう…。
 

その恐ろしさを、私は叫ぶような勢いで伝えたい…。
 

この私の中にあるヤムニヤマレヌ想いが「ストップ・ザ・介護殺人!」というシンポジウムを企画実行させてしまったのでしょう。
 

この想いに響く方々とのかえがえのない場が、9月22日当日出現することを祈ってやみません。

 

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この映像、私、父の墓参りの際に、父の墓石の前で上映したんですよねええええ!

 

その時、父の魂が間違いなく喜んでいることが感じられたし、私自身の魂も浄化されました。

 

さて、6月18日今朝、私は徹夜で朝を迎え、5時55分に宿泊しているビューホテルを出て、モニュメントバレーのワイルドキャットトレイスの散歩に向かいました…。

 

しかし、その散歩が…、単なる散歩で終わらなかったんです。

 

私が五年前にモニュメントバレーを訪ねた時に最も魅かれた岩山という名の神殿、メリック・ビュート…。

 

その上のほうまで、かなり迫った昨日の朝だったのですが、徹夜明けにも関わらず、メリックビュートを見てしまうと、

 

昨日行けなかった真正面からのルートで、

できるだけ近くのところまで行きたい!

 

と思ってしまうんですよねえええ(笑)

 

それで・・・、向かいました…。

 

ワイルドキャットトレイルから二キロ地点から見たメリックビュートです。

 

さて、この神殿とも呼べる偉容に、どこまで井上祐宏は迫れるでしょうか?

 

続きは明日\(^o^)/

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