こんばんは。一般質問で、ついでにカミングアウトしました。
(総選挙翌日の虹。)
本来なら、そのへんの思いを語らなければですが、何を言っても嘘っぽいというか、身の丈に合ってない気がするので、もう少し自分なりに整理されたらまた何か書こうと思います。
理由なんか本来はいらないしね・・。
てなわけで、質問の全文と答弁の勝手に編集した要旨です。
答弁は読みやすいよう、個々の質問と対比して書きました。本来は答弁だけでひとつながりです。
再質問と再答弁も勝手に編集しています。ではGO!
質問の四点目は、LGBT(性的マイノリティ)のくらしにくさの改善をめざしてお聞きします。
LGBTはもう説明はいらないかもしれませんが、Lesbian女性同性愛者、Gay男性同性愛者、Bisexual両性愛者、そしてTransgender性別違和のある方の頭文字を並べたもので、性的マイノリティ全般を指します。
LGBTと一括りになっていますが、どちらの性を愛するかという「性的指向」と、自分自身がどちらの性と認識するかという「性自認」とは、別のものです。
ゲイの男性は女性になりたいわけではありません。また、「男性の体で心は女性」という人の好きになる相手が男性だとは限らず、「トランスジェンダーのレズビアン」ということもあります。
性的関心のない人もいれば、揺れ動くという人もいて、性のあり方はグラデーションのように多様性があります。
(ここでパネル出す)
そこで、「性的指向と性自認」Sexual Orientation and Gender Identityの頭文字をとったSOGI(ソジ)という言葉も使われています。
なお性的指向は趣味嗜好の「嗜好」ではなく、どちらを向いているかの「指向」です。
LGBTは、自ら選んでなるというものでもなく、やめたり治したりもできません。親の育て方によるものでもなく、ただ本人がそうであることに気づくだけです。
LGBTに関しては世界に多くの統計がありますが、どこでも5%ぐらいがそうだというのが定説のようです。5%といえば、全国民のうち佐藤さんと鈴木さんと高橋さんと田中さんを合わせると約5%だそうです。
とすると、日常のあらゆる場面のなかで、LGBTの当事者は存在しています。
私も、そのうちの一人です。わざわざ言うことかはわかりませんが、一つの実例になればと思います。
今回はSOGIに関わって3点ほどお聞きをしたいと思います。
まずは教育についてです。
LGBT当事者の困難の根本にあるのは、自分の存在が社会に想定されていないということです。
当事者の子どもにとって現在、成長していくことには障害がたくさんあります。
だれもが空気のように当たり前に思っている社会の大前提に、自分はあてはまりません。それは自己否定につながります。
自分と同じ当事者の存在は見えず、テレビではオネエタレントのような、誇張されたキャラクターしかいません。親にも相談できず、自分がどのように生きていけるのかのモデルがなく、将来への希望がもてません。
自分がLGBTだという事実は簡単に受け入れられるものでもなく、受け入れても実際行動に移していくのは、高いハードルだといえます。
もちろん個人差はあります。
宝塚大学の日高庸晴教授によるLGBT1万5千人の調査では、学校でいじめにあった人は6割です。また、自殺を考えた人も6割台、自殺未遂をした人も1割を超えます。
昔より理解が広がっていそうな、10代の当事者だけを見ても、大きくは変わりません。
すべての子どもたちがSOGIについての知識を学び理解するならば、多くの失わなくていい命を守ることができると思います。
文科省が学習指導要領を改訂したとき、ある項目にたくさんのパブリックコメントが寄せられました。小中学校の保健体育で、「思春期になると、異性への関心が高まる」という部分です。
そうでない場合もあることを教えるべきという多くの声がありながら、それは通りませんでした。
高校では初めて教科書にLGBTが載ったそうですが、トランスジェンダーの人の多くは小学生のときからすでに違和感をもっています。
思春期以前から学んでおくことが、当事者にとっても大事だし、まわりの子どもたちにとっても、不適切なからかいやいじめなどをしないためにも大事であると思います。
本市ではすべての小中学生にSOGIに関する学びを保障すべきと考えますが、見解をお聞かせください。
<答弁>女性交流支援センターと連携し、来年度には市内各中学校でSOGIについての学習を実施する予定。
文科省は教職員に向けて、性別違和などの児童生徒へきめ細かな対応を行うよう求めるガイドラインを出しています。
その中で、教育でSOGIを取り扱う場合は「学校全体で共通理解を図るとともに保護者の理解を得ること」とされています。
社会の理解がまだ十分でないもとで、他の人権問題と同様に、たとえ反発などがあったとしても、ねばりづよく取り組むことが必要であると思います。
そして、LGBT当事者の子どもにとっては、自分の親が理解してくれるというのは何より願っていることです。
子どもだけでなく、すべての保護者にSOGIに関する理解を広げる必要があると考えますが、見解をお聞かせください。
<答弁>保護者のみに限定した研修会等の予定はないが、学校・PTA・女性交流支援センター等と連携を図り検討し、鋭意進めていきたい。
先日、埼玉県の小学校で、教員が「誰だオカマは」という発言をしたことで学校が謝罪したニュースがありました。
そこには当事者の児童がいたそうですが、当事者がもしいなかったとしても、そういう冗談を言ってもいいし笑いもとれるという見本を教員が実践してみせたのでは、差別の再生産になります。
「冗談も言えなくなる」という意見もありますが、誰かが傷つくような冗談は、やがてなくなっていくのが社会の進歩です。
教員は、どのクラスにもいると思われるLGBTの子どもにとって、よき理解者であり味方になってくれる大人である必要があります。
しかし文科省のガイドラインを読むだけで、実践することは難しいのでないかと思います。
たとえば「君の選んだ道だから先生は全力で応援するよ!」という励ましはNGだそうです。
本人は悩んで揺れ動いている最中であり、「みずから選ぶことのできる道」でもないからです。
教員が自信をもって子どもの味方になれるように、また、当事者の子どもに相談できる相手だと思ってもらえるように、すべての教員にSOGIについての研修を保障すべきと考えますが、見解をお聞かせください。
<答弁>各中学校でのSOGI学習に向け、教職員の事前研修を予定。来年度の教育支援センター主催の夏季特別研修会の中でも検討。
また、学校が当事者の子どもたちにあたたかいメッセージを発しつづけるために、図書室へのSOGIに関する本の配架や特集、SOGIに関する学校内の掲示や通信などでの取り上げ、単なる相談活動ではなくSOGIに関する相談も乗るよというアピールなど、日常の継続した取り組みも必要であると思いますが、見解をお聞かせください。
<答弁>研修等を進める中で学校等と検討を進め対応したい。
次に、市役所についてです。
9月議会の決算分科会で、LGBT当事者の相談窓口について議論がありました。
「窓口が現状では無い」という答弁から、「市民なのに相談できないなんてあるか」という議論になり、市長も「どういう相談のニーズがあるか研究したい」と述べられたと記憶しています。
LGBT当事者の相談のニーズには、専門性の高いものもあるとは思います。
しかし一般の市民が普通に市役所に相談できることがLGBTであるがゆえにできないとか、市の制度に関してLGBTであるがゆえに不都合が生じているなどということなら、それは市役所が積極的に受けるべき相談であると思います。
例えがいいかわかりませんが、同性のカップルが生活に困窮しても保護係に行きにくいでしょうし、DVを受けても女性交流支援センターに行きにくいでしょう。
LGBTゆえに職場をクビになったり、嫌がらせをされても相談しにくいでしょう。
LGBTゆえのいじめや、制服などへの違和感も、決して言いやすいものではありません。
そう考えれば、市役所にLGBT相談窓口を一つ設けて終わりというのではなく、どこの部署でも「LGBTの方もいることを理解していますよ。お気軽にご相談ください」と言える状態になっていくことが必要ではないかと思います。
その一歩として、すべての職員へのSOGIに関する研修を行い、それぞれの部署でどんな課題が考えられるかディスカッションされてはどうかと思いますが、見解をお聞かせください。
また環境が整うまでにも、やはりどこかのセクションが、LGBT当事者からの市政全般にわたっての相談を受け、関係課へつなぐ役割を果たしていくべきではないかと思いますが、見解をお聞かせください。
<答弁>先月の人権啓発研修会でTの学生の就職をテーマに。H26年度の男女共同参画推進本部研修でもTの講師で。各所属から1名は出席した。当事者の相談は、まずは男女共同参画課で。
本市ではこのたび、印鑑証明や住民票の記載事項証明が、性別を記載しなくてもよいこととなりました。
これで戸籍上の性別を見られては困るというトランスジェンダーの方も、少し安心することができます。
当事者にそのことが十分周知徹底されることを期待するものです。
トランスジェンダーの方にとっては、医療機関の窓口で戸籍上の性別が記載された健康保険証などを提示することも、大きなハードルであり、それで医療にアクセスできないということもあります。
本市の発行するさまざまな証明書類の性別表記について、対応をお聞かせください。
<答弁>法律や政省令などに基づいた事務処理を基本。自治体判断のものは必要性を厳正に判断。
トランスジェンダーの方にとって、トイレの問題も切実です。
外出時のトイレは周りの目があることから、自らの性自認に基づくトイレに入れない、あるいは入っても必ずしも安心できないなど、一人ひとり状況の違う複雑な問題です。
その中で最大公約数となるのは、多目的トイレであると思います。
従来は障がい者用トイレとして整備されてきましたが、近年はLGBTはじめどんな方でも使っていいですよという位置づけがされてきています。
LGBTを表示するとかえって当事者が入りにくくなるため、たとえば誰でもトイレと名づけるそうです。
本市の学校ではみんなのトイレとしていると聞きましたが、その他の公共施設にある多目的トイレについて、LGBTにも配慮した位置づけについてはいかがでしょうか。お聞かせください。
<答弁>質問の趣旨は新庁舎設計にも生かす。
最後に、同性パートナーシップ制度についてお聞きします。
今年は台湾やオーストラリア、オーストリアなどで、国民の世論を背景に同性婚が実現する方向となりました。
日本ではその議論はまだまだですが、同性パートナーシップ制度を創設する自治体がいくつか出てきています。
結婚という制度の保障がない二人がともに生活を営んでいくには、さまざまな障害があります。
たとえば一緒に住むことへの障害や、病気治療や介護のさい家族として説明を受けたり判断したりできない場合もあるということ、死別したとき、相続で他人と変わらない扱いになること、最後の別れができなかったり、お葬式にも呼ばれないかもしれません。
自治体の発行するパートナーシップ証明は、法的な効力を直接発するものではありませんが、二人の関係を第三者である公的機関が認めるという点で、当事者にとってたいへん心強いものであると思います。
民間企業の同性カップルへのサービスも広がってきています。
パートナーシップ証明書は、当事者にとって社会から認められたという安心感と、よりよく生きていくことへの意欲につながっているといいます。
現状では利用できる人はごく限られていますが、制度があること自体が、その自治体が市民の多様性を尊重していることを雄弁に語るのではないかと思います。
本市は平成22年、男女共同参画推進条例を制定し、そこでは単に男性と女性だけではなく「性同一性障がいを有する人、先天的に身体上の性別が不明瞭である人その他のあらゆる人」の人権について配慮されることとしています。
条例審議のなかで、すべての会派がその点を評価をして賛成討論をされました。
この「あらゆる人」には同性愛者や両性愛者も入っていると、私の質問に対して答弁されています。
アムネスティの調査によると、LGBTの課題解決について、京都では長岡京市だけが条例のなかで直接記述しているそうです。
その点は、当事者のみならずすべての市民にとって誇れることだと思います。
今議会では、「誰もが共に自分らしく暮らす」障がい者基本条例も提案されています。
本市が京都で最初のパートナーシップ制度導入自治体となることをめざして、先行自治体の調査や、課題の整理を始めてはどうかと思いますが、市長の見解をお聞かせください。
<答弁>一人一人の生き方が尊重される長岡京市でありたい。LGBT取り巻く日本の現状は遅れていると言わざるを得ない。が、制度だけ変えて国民意識がついていかなければ真の解決ではない。どのような仕組みが望ましいか。同性に限定する制度自体、多様性と言い難いという議論もある。制度導入の成否は市民にどれだけ受け入れられ根付くか。十分な議論が肝要。議会の議論の深まりを。
長々とやってしまいましたが、私は決してSOGIに関する議論を独りじめしたいとは思っていません。当事者の問題なのではなく、社会そのものの課題なのだと思います。みなさんからも大いにとりあげていただきたいことを心からお願いして、一回目の質問といたします。ありがとうございました。
(イメージ写真:東京レインボープライドで山添参院議員と)
【小原再質問】
なんの前触れもなくいきなり聞いたので、すぐやりますとならないのは当然。
ただ「同性だけの制度は多様性に反する」という答弁については、札幌市では性別にかかわりないパートナーシップ制度ができていると聞く。私も勉強していきたい。
市民や議会の合意をという市長の考えはよくわかる。
ただ一方で、パートナーシップ制度は、市民の理解がなければしてはならないのか?とも思う。
パートナーシップ制度は、だれの生活もおびやかすことはない。社会のあり方もくずさない。二人の仲を証明するだけ。本人同士があたりまえに喜びを感じられるだけ。
政治的・社会的インパクトもあるが、同性カップルの今の不便をなくしていく実質的な制度。
男女が結婚するのに、周りの人の了解などいらない。二人の合意だけでよい。憲法で保障されている。
でもそれが同性なら、市民の理解がなければダメというのは公平だろうか。その「市民」というのは多数者のことだ。
「理解する・しない」の中身は、つきつめれば生理的・感覚的な違和感。
でもその違和感は、今の日本社会が、同性同士では手をつないで歩くこともできない現状だからにすぎない。
そういう見たことや触れたことがないゆえの偏見を、人間は理性でもって克服してきた。
その理性というのを、行政や議会は、率先して市民に示してゆくべきところ。
市民や議会の議論の成熟を見極めてというのも民主主義かもしれないが、見極めた結果、やらないとなってもよいか。市長は市民に積極的に働きかける立場であってほしいが、市長の思いを問う。
【市長再答弁】多様性を幅広く認めていくのがスタンス。ただ、婚姻制度は国としてやるべき。でないとくらしの問題が根本的に解決はしない。市民の理解を促進するために制度をつくるのも一つの考えだが、利用した人への奇異の目というリスクも考える必要がある。うんぬん(ごめんなさい、メモ漏れ)
【感想】再質問をパートナーシップ制度に絞り、あとの答弁を丸っきり聞いてなかったので、証明書類とトイレの部分がけしからん内容だとあとで気づく。別の場面でつっこみます。市長も、ほかの議員の反応もわからない中なので、態度を示しにくかったと思う。じっくりいきます。
小原さんの言わんとしていることとは違っているかもしれませんが、私のような精神障害者が感じている「社会での生きづらさ」とどこか似ているのかなと感じた次第です。
字数制限のため詳しくは書けませんが…。
男という性も女という性も、属性に過ぎないのですが、それを殊更差別問題として捉えるのは、人間特有です。ある種の生物のように性別を自己の中で変化させられたらいいのですが、残念なことに人間にはそうした機能は適用されませんでした。
性という属性を越えて人間としてお互いを愛するのは当たり前のことです。でも、そこに性を利用して生まれる子供とか、セックスそのものを表明されると、違和感を覚えるのは自然な感情だとは思われませんか?
いじめの原因に自らの性への違和感を上げていますが、いじめそのものの根拠はなんでもありなんじゃないでしょうか。どんな形であっても自分とは違うものを忌み嫌うのは私達人間の性ではありませんか?
多様性とよく謳われます。それはある意味自分とは違う人々にこう訴えていることでもあります。「時代は変わった。心の狭いお前らは、お前らとは違う私達を受け入れるために、心を広げるべきだ。」
でも、性そのものの多様性など今のところ自然界には見られません。もしそうした事態が起きたなら、それは無秩序の始まりであり生物の生存そのものの崩壊であり延いては破滅への序曲ともなり得ます。
性での差別なら、女の歴史は雄弁に語ることでしょう。人間として生きるとはなんなのでしょうか。個人の性的な好みは、個人のものであり、衆目に晒して、狭い了見の人々の神経を逆撫ですることではないと思います。
「多様性」といってこれまでにないものをもちこまれるのは誰しも当然抵抗があることと思います。それは私にも当然あります。それをけしからんと言うつもりはありませんが、そうなんだと知る過程をつうじ、時間をかけて解決されていくのかなと思います。ただ公的な立場にいるものは、自覚をもって抵抗をのりこえる努力がいると思います。私を含めて。
いろいろなご意見をいただくことで、私自身も「ああこういう疑問が生じるのだな」と勉強になります。ありがとうございます。