三国志の英雄たちが犯した失敗には、学ぶべき教訓がたくさんあります(写真:genjoe / PIXTA)

小説やゲームなどで親しまれ、現代人に「リーダーとはかくあるべき」との道筋を示しているといわれる三国志。しかし、その物語で語られている群雄たちの活躍の多くは、実は後年の作家・羅貫中(らかんちゅう)の小説『三国志演義』による“創作”にすぎない。
実際の英雄たちの姿は、後漢の歴史家・陳寿が記した歴史書・『正史 三国志』に記されているが、フィクションのヒロイックな姿とはかけ離れた、「リアルなリーダー像」が描かれている。
『『三国志』からリーダーの生き方を学ぶ 英傑たちの惨めな“しくじり”から、教訓を導く!』の著者・宇山卓栄氏によると、「『乱世の姦雄(かんゆう)』曹操も、『天才軍師』諸葛亮も、リーダーとしてやってはいけないミスを犯し、国(組織)に致命的な損害を与えている」という。

リアル「三国志」は、「残念なリーダー」事例の宝庫

なじみのあるマンガや映画の三国志で展開される英雄伝・武勇伝は、ありえない作り話が満載です。しかし、事実に近い史料とされる陳寿の『正史』に立脚して、あるがままの現実を見れば、三国志の英雄も「ウチの上司/社長と同じだ!」と思える点を見つけられるでしょう。

その一例として挙げられるのが、三国志でも主役級の扱いを受ける、蜀を建国した劉備(りゅうび)です。

劉備は、関羽(かんう)や諸葛亮(しょかつりょう)など、有望な人材を集めて活躍した「仁義の人」として知られています。まさに英雄中の英雄と言われる劉備ですが、晩年は「三国一の残念リーダー」と言えるくらい、大きな過ちを犯します。

最も大きな過ちが、義兄弟の関羽が呉の武将に殺されたために決行した、呉への復讐戦です。劉備軍は無理な行軍を行ったため大敗し、自らも死んでしまいます。

この戦いの前夜では、右腕の武将である張飛が、今でいうパワハラに苦しんだ部下たちによって殺されてしまう事態まで起こっています。劉備は、張飛のパワハラを長年放置したため、戦いの前に貴重な戦力を失ってしまいました。

劉備は子育てにも失敗しています。嫡男の劉禅(りゅうぜん)は完全な「お金持ちのドラ息子」で、諸葛亮が病死するとあっさりと魏に自国を明け渡すと、自らは生き残り、生涯遊んで暮らします。

フィクションでは「理想のリーダー」の劉備であっても、現代の私たちから見ると、「ものすごく残念な部分」があることがわかります。

もちろん、残念なリーダーは劉備だけではありません。三国志の有力者たちの「残念リーダーシップ」を見ていきましょう。

最盛期には河北の4州を支配し、多くの参謀を抱える群雄の1人だった袁紹(えんしょう)。彼は名門汝南袁氏の出身の、いわゆる名門一族出身の貴公子。一言で評するなら、財閥の筆頭というイメージです。

袁紹:ゴマすり部下を優遇した「自己中上司」

しかし袁紹は、部下を「好き嫌い」で判断する性格で、自分の考えとは異なる意見を言う配下を無視し、お気に入りの参謀・郭図(かくと)の甘言ばかり採用しました。

この被害を特に受けたのが、配下の武将・張コウでした。西暦200年、曹操と袁紹が直接対決を行った「官渡(かんと)の戦い」では、郭図と張コウは別々の場所に兵を送ることを進言します。 この際、袁紹は軍を二手に分けて攻撃するという優柔不断な戦略をとり、全軍が共倒れして大敗してしまいました。

この際、お気に入りの郭図が袁紹に「張コウは敗戦を喜んでいる」と讒言(ざんげん)します。自分の君主が郭図の進言ばかり聞くことに反感を抱いていた張コウは、ついに袁紹を裏切り、敵である曹操に寝返ってしまいます。

張コウはその後、魏軍の勇将として長期にわたり数々の戦果を上げました。袁紹は有力な部下を生かし切れなかったばかりか、やすやすとライバルに渡してしまったのです。

袁紹はほかにも失敗を犯しています。曹操が劉備と戦って、彼の本拠地を留守にしていたときのこと。参謀の田豊(でんほう)が、曹操の背後を襲撃するよう袁紹に進言します。しかし、袁紹は息子(袁尚・えんしょう)の病気を理由にこの進言を採用せず、曹操を滅ぼす絶好のチャンスを逃してしまいます。

その後息子の病気が治り、袁紹は曹操に戦をしかけようとしますが、田豊は「すでに勝機を逃し、今戦えば大敗する」と反対します。これに腹を立てた袁紹は、「田豊がわざと自分の考えに反対している」と、彼を投獄してしまいます。結局、袁紹は、曹操を倒すことができずに生涯を終えます。

上司にいくら正しいことを言っても、「わざと反対している」と曲解されては、返す言葉もありません。「忠言耳に逆らう」という言葉のとおり、仕事の難点を正確に指摘しているのですが、上司は「ケチばかりつけて、傲慢なヤツだ」と遠ざけがちです。部下にすれば、このような上司は見切って当然でしょう。

次は、曹操の魏、劉備の蜀に並ぶ、呉を建国した英雄、孫権(そんけん)の話です。

孫権:身内の騒動で失速した「優柔不断オーナー」

彼の強みは、神がかった人材登用術でした。「赤壁(せきへき)の戦い」では周瑜(しゅうゆ)を用いて魏を破り、「荊州(けいしゅう)攻め」では呂蒙(りょもう)を用いて関羽を破り、「夷陵(いりょう)の戦い」では陸遜(りくそん)を用いて劉備を破るなど、「当たり采配」によって強固な地盤を築きます。

孫権は人材をうまく使いこなせる、調整型のリーダーでした。しかし、一言で調整といってもいろいろな形があり、本人の得手不得手はやはりあります。孫権は、人材登用能力が優れていましたが、利害調整に失敗し、自らが建国した呉を滅ぼす遠縁をつくってしまいます。

孫権が60歳になる頃、孫権の息子たちの間で後継者争いが勃発します(二宮(にきゅう)事件)。赤壁の戦いで魏を倒してから35年が経ち、呉も順調に発展して、余裕が出てきた時期です。臣下たちは自分の勢力を拡大することばかりを考え、家臣団が分裂します。そこに後継者争いが始まったため、臣下たちはそれに便乗し、勢力を伸ばそうと騒ぎはじめました。

孫権は、この騒ぎを収拾するどころか、家臣団や身内の讒言にふり回され、名将の陸遜を含めた優秀な配下を次々と処刑してしまいます。自分の子どもたちに関することでもあり、孫権は優柔不断のまま有効な手を打たず、内紛で国が滅びる寸前まで追い込まれてしまいました。

一方、魏でも曹操(そうそう)の息子たちである曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)が後継者争いを行いましたが、曹操は曹丕を後継者に指名したことで争いは収まり、後の世代でも安定した治世が続きました。

有能なトップが一代で築き上げたオーナー企業が、“身内争い”によって崩壊するのは、ビジネスの現場でもよく耳にします。どのような組織においても、後継者をしっかり決めるということは、リーダーの「最後の責任」なのです。

では、三国志随一の強者・曹操はどうでしょうか?

曹操といえば、智謀に優れた合理主義者で、三国No.1の強国・魏を建国した、三国志の中で最も成功した大英雄です。

曹操:連戦連勝で調子に乗りすぎた「自信過剰上司」

この曹操が晩年に唯一残した汚点が、呉・蜀の連合軍と長江流域で戦った「赤壁の戦い」です。映画『レッドクリフ』の題材として、皆さんも見聞きしたことがあるかと思います。

フィクションの『三国志演義』では、“天才軍師”の諸葛亮が祈禱によって風を吹かせ、火攻めを仕掛けて曹操の大船団を派手に焼き尽くすという、現実にはありえない戦術によって敗北を喫しました。これだけを読むと、「さすがの曹操も、これでは勝てないだろう」と、誰しも曹操に同情してしまうでしょう。

しかし史実である『正史』をひもとくと、曹操が「リーダーとしてあるまじき失態」を犯していることがわかります。

そもそも、赤壁の戦いの敗因は「火攻め」ではなく、「病気の蔓延」だったとの見方が有力です。史実である『正史』によると、この「火攻め」についてはあいまいな記述が多い一方で、「疫病が流行して、官吏士卒の多数が死亡したため撤退した」という撤退理由が記されています。

実はこの疫病は、「長江流域特有の風土病」としてよく知られていました。曹操の参謀の賈詡(かく)は、この点を踏まえて「呉侵攻の準備には3年かけるべき」と進言しています。

しかし、曹操はそれまでの戦いで勝ちが続き、慢心していました。「士気の高いうちに一気に決着をつけるべきだ」と呉への侵攻を断行した結果、大敗を喫します。

普段、曹操は、賈詡や程碰(ていいく)などの参謀の言うことによく耳を傾けました。しかし、天下統一を目前にして意識が高揚し、冷静な判断を欠いていたのです。こんなときこそ慎重になるべきですが、あの曹操でさえもそれは難しかったようです。

勝ちに乗じた人は、自信と意欲にあふれています。そんなときこそ、足をすくわれることのないように、部下がしっかりと進言をしなければなりません。上司と部下の関係が、最も試されるときといえるでしょう。しかし、腹心の賈詡や程碰ですら苦労したように、それは簡単なことではないのです。

諸葛亮といえば、劉備に仕えた政治家で、その傑出した知性で蜀の建国を支えました。三国志に詳しくない方でも、彼の名は聞いたことがあるでしょう。史実でも、天下に名を轟かせる才能がありながら、品行方正、公明正大な性格で尊敬された、「理想の上司」に最も近い人物です。

諸葛亮:優秀すぎてチームを潰す「できすぎ上司」

しかし諸葛亮は、部下に仕事を任せることができず、何でも自分でやらなければ気が済まないリーダーでした。優秀な人材はいましたが、彼らが成長する機会を与えず、埋れさせていたのです。

諸葛亮は一度、愛弟子の馬謖(ばしょく)にある戦いを任せましたが、命令違反をした馬謖は大敗してしまいます。それ以降、諸葛亮は人材を用いることをやめ、将軍の姜維(きょうい)などの一部の者を除き、後継者を育てることをしませんでした。

君主である劉備亡き後、尊敬すべき君主も頼りになる部下もいなかった諸葛亮は、蜀のほぼすべての公務を自分で決裁し、こなしていたのです。


魏の軍師・司馬懿(しばい)は、陣中に諸葛亮の使者が来訪した際に、諸葛亮の食事や仕事量、生活の様子などを尋ねました。使者は「(諸葛亮は)ほとんど睡眠をとる時間もなく、鞭打ち20以上の刑罰はすべて自分で裁定し、食事は数升しか召し上がりません」と正直に答えました。それを聞いた司馬懿は、諸葛亮が過労でまもなく死ぬと予測します。

司馬懿の予想はすぐに的中し、諸葛亮はその後まもなく病で倒れ、人材が育たなかった蜀はあっさりと魏に征服されてしまいます。

1人で仕事を独占し、後進に仕事を振ろうとしない人は、どんな職場にもたくさんいるでしょう。「まだまだ現役!」と張り切って現場を奔走するため、周りもその人をもてあまし、新人の成長の芽を摘んでしまいます。有力なリーダーが奔走することで一見組織はまわりますが、成長力はどんどん低下してしまい、やがて競争に負けてしまいます。 「リーダーが孤軍奮闘する集団(会社、コミュニティ、国家など)の繁栄は長続きしない」のです。

ここまで三国志のリーダーたちの失敗を見てきましたが、いかがでしたでしょうか。上司である人は自分の立ち居振る舞いはどうか、また部下の立場の人は自分の上司はどうか、参考にしてみていただけたらと思います。