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さらけだす、とか、したくないよ。

この「コンテンツ会議」という企画は、コルクの佐渡島さんと毎週、勝負としてやっている。勝敗は、記事のページビューで決めるのだが、いま2勝4敗になっている。これはまずい。

不利なほうとしては、ここらでちょっと、プロレスをやる必要があるだろう。

そこで今回は、佐渡島(←呼び捨て)率いる、コルクのテーマである「さらけだす」について考えてみたい。

最初にそれを聞いたぼくの感想は、「いや、さらけだしたくないでしょ」である。「佐渡島くん、なにを言ってるの。おれを巻き込まないでくれ」である。きっと同じ感想のコルク社員もいるにちがいない(みんな、遠慮なくスキやシェアをしてください)。

もちろん、クリエイターに言うのはいいんですよ。さらけだすのも仕事のうちだから。ぼくも仕事柄、作家に対して「もうすこし、自分自信に踏み込んで書いてください」というようなことを言うときもある。でも、そんなこと、クリエイターですら、したくない人も多かったりする。

ひとがなにかをさらけだすと、たしかに人目を引く。そういう意味では、魅力的なコンテンツになる可能性が高いのも事実だ。でもそれは、危険と隣り合わせなのではないかと思う。

さらけだした感情とか、想いというのは、とにかく強烈だ。

「服を脱ぐ」ことにちょっと似ていて、それ自体にインパクトがある。さらに脱いでいくと、最後にはもう脱ぐものがなくなってしまう。料理にたとえると、ケチャップやマヨネーズのようなもので、入れると確実においしくなるけれど、つくる側も、味わう側も、繊細な感覚がなくなるリスクがある。

たしかに、さらけだすのは、コンテンツづくりのひとつのやりかただとは思う。でも、その場合も、それだけでは足りなくて、なにか「芸」をプラスする必要がある。むしろその部分こそが、ただの露出狂になるのか、アートになるのかを分けることになるだろう。

そしてもちろん、さらけだし以外の方法だってある。

抱きしめられたい』糸井重里

本書は、糸井重里さんが「ほぼ日」に書いた文章をよりぬきしてまとめた本だ。1つ1つの文章は短くて、1ページ、もしくは見開きに1つ、糸井さんのことばが載っている。ところどころに入る写真もかわいくて、ふとしたときに適当なページを開いて楽むことができる。

糸井さんの文章は、どまんなかに直球でいくタイプの表現ではない。その逆で、周辺をていねいになぞっていくと、結果的に、本丸が浮き出てくる、そういうタイプの文章だ。料理でたとえるなら、「だし」とか「かおり」でおいしいものをつくるようなイメージだ。

この方法でひとにものをつたえるのにはそうとうな腕がいるのだが、うまくできると、静かで心地よい感動が得られる。映画で言うと、小津安二郎の作品を観たときに起こる感情に近いかもしれない。ぼくは断然、こっちが好きだ。


でも、でも、でも、本書の中に出てくる文章を、石田ゆり子さんが朗読している動画は、こころにずしんと突き刺さる。これは、さらけだす、とはちょっとちがうんだけど、ご本人がすこしだけ、はみでちゃってるかもしれない。

これはさあ、泣いちゃうよね。

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