真田丸の攻防…徳川の〝拙攻〟如実に「家康の命に従えば落とせた!?」 大阪歴史博物館で講演会

【参考】大坂冬の陣配置図の一部(大阪歴史博物館蔵)
【参考】大坂冬の陣配置図の一部(大阪歴史博物館蔵)

 徳川家と豊臣家が国を二分して戦った慶長19(1614)年の大坂冬の陣で、真田丸にこもった豊臣方の知将・真田信繁(幸村)の武勇は有名だが、一方で、徳川方の拙攻についてはあまり知られていない。真田丸の攻防で徳川方の戦い方にこそ大きな失態があったとして、攻撃側の視点から大坂冬の陣を考察した講演会が大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開かれた。(高橋義春)

 講師は、「近世の軍事・軍団と郷士たち」などの著書で知られる長屋隆幸・名城大学非常勤講師。真田丸に本格的な攻撃をしかけた同年12月4日の徳川方について、加賀藩・前田家、越前藩・松平家、彦根藩・井伊家の行動を中心に解説した。

 徳川方にとって、大坂城攻めの最大の障害になっていたのが城の南に続く上町台地に築かれた真田丸と、その南に位置する篠山(ささやま)(鉄砲隊が配置された小高い丘)。徳川方は篠山を攻略し、その勢いで真田丸を落とそうとしたが、攻撃は頓挫をきたした。

 長屋講師は「徳川家康は、各藩は、塹壕(さんごう)や土塁をつくるなどの準備をして戦うよう指示をだしたが、功を焦って、それぞれが突発的に戦闘を行った」と、攻撃頓挫の要因を指摘。

 さらに、「家康の撤退命令に各藩が面目を保つために他藩より先に引き揚げることを拒んだほか、鉄砲足軽を指揮する武士が率先して前に出るなど部隊の指揮より個人の武勇を重んじた」と敗因をあげた。

 こうした拙攻を展開する徳川方の動きに対して、真田側は篠山の兵をごっそり引き揚げさせる「オトリ作戦」をとったり、鉄砲の猛射などを浴びせたりして徳川方を攻めた。結局、真田丸の攻防は被害がほとんどなかった真田側の完勝に終わったとされる。

 長屋講師は、「徳川家康の命令に従い、じっくりと攻めていれば真田丸は落とせていたのではないか」と分析している。

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