無疑曰信

大白蓮華9月号に掲載された 池田SGI会長講義 ”世界を照らす 太陽の仏法”、第17回信仰の基本「信・行・学」。今回は「信」についての講義です。KIMG0508信心は「無疑曰信むぎわっしん」だということは、元品の無明を退治することと御書にある通りで、良く解っていたつもりだったのですが…

「無疑」とは文字通り「疑いが無い」という意味です。言い換えれば、「心から納得できる」とも言えるでしょう。それは、「疑わない」、即ち「不疑」とは異なります。
もし宗教が疑いを持つこと自体を否定するならば、人間本来の伸びやかな精神は失われてしまう。そうした、精神の営みを否定する宗教では社会から遊離し、独善や狂信に陥ってしまう危険性があります。

「不疑曰信」ではなく「無疑曰信」なのです。

(戸田)先生は、常々「信は理を求め、求めたる理は信を深からしめむ」と語られていました。この「理」とは論理性とも言い換えられるでしょう。私の体験からいっても、疑問を明確にし、実践の中で徹底して考え抜いて、心の底から納得することが、信仰を深めていきます。
「御義口伝」には、「真の外に解無く解の外に信無し」(P.725)ともあります。
つまり、「信」を深めることで求道心が起こり、法理を学び実践し、体験を重ねる中で、確信を強めていく。そして、生命の実感の上で「疑いが無い」ことが「無疑」なのです。

ここまで深く捉えた理解に、今更に驚きました。本当に奥の深い考察に感動しました。

更に、元品の無明について、

元品の無明とは、自分の生命に仏の生命が具わることを信じられない根本的な迷いであり、”不信の生命”です。本質的に自分自身の尊厳を信じられないことに通じます。自分の仏性も信じられないのですから、当然、他人の仏性も信じることができない。
この元品の無明を断ち切る「利剣」こそ信心なのです

信心の本質は、元品の無明、即ち一人ひとりの無限の可能性を、信じる事ができるかどうかということです。この元品の無明こそが、「信」のキーワードなのです。

自分自身の無限の可能性、つまり Potential Energy を信じられるかどうかに全てがかかっているんですね。
ボクたちの広宣流布は、元品の無明を払うことに尽きるのです。

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