佐光紀子『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』(光文社新書)

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「ミニマリスト」や「断捨離」など、簡素で質素な暮らしについて、日本では「素晴らしい」と考える人が多い。だが、アメリカでは変人扱いされかねない価値観だ。なぜ日本人は質素を「美徳」と考えるのか。翻訳家の佐光紀子氏は「『華美はダメ』と言い続ける日本の校則のせいではないか」と指摘する――。(第3回、全3回)

※本稿は、佐光紀子『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』(光文社新書)の第2部「『片付けすぎ』が家族を壊す」を再編集したものです。

■最初はまわりから変な奴だと思われる

「ミニマリストの負の側面」(The Downside of Minimalism)というアメリカのウェブサイトがある(※1)。実際にミニマリストを標榜している人たちが、どういうことを不便だ、あるいは困ったと思っているかを、本やホームページから抜粋してきたものだ。

そのトップに出てくるのは、「Zen Habit(禅ハビット)」というホームページの主宰者でミニマリストのレオ・バボータ(Leo Babauta)だ。バボータさんは、「最初はまわりから変な奴だと思われるかもしれない」と冒頭で言っている。家族や友だちには、自分のやり方をわかって認めてもらう必要があるし、まわりと違う自分でいるには、ちょっと勇気もいる、と言う。

3児の母で「Minimalist Mom(ミニマリストのママ)」というページを主宰しているレイチェル・ジョナートも「物を持たないライフスタイルを家族やまわりの人に説明するのは、かなり大変」だと言う。そこで人には、「うちにはいいけど、誰にでもあてはまるライフスタイルではないかもしれないわ」という説明をしているとレイチェル。物をある程度減らして暮らす快適さはどんな人にもあてはまるだろうと考えてはいるものの、それを主張すると、人によっては個々人のライフスタイルを批判されていると受け止める人もいるので、一般論化は避けているらしい。

■「断捨離」を褒めるには日本人だけ?

日本では、断捨離中だと言うと、「素晴らしい」「偉いわ」という反応が多い印象だったので、アメリカでは変わり者扱いされるというバボータさんの言葉には、正直なところ、かなり驚いた。多民族国家で、同じ教室に目の色も髪の色も文化的背景もバラバラな人が学ぶアメリカの学校で育った人たちは、日本人に比べると、自分たちと違う人に対する許容量がかなり大きい。髪が縮れているからといって、学校に縮毛届けを出す必要もないし、茶髪だろうと金髪だろうと、それで文句を言われることはない。

キャンプなどで団体行動に加わらない子がいても、危険がなければ尊重される。「変わり者」の許容範囲が、日本に比べるとだいぶ広いのだ。日本では指をさされそうな人でも、「まぁ、ああいう人もいるよね」ぐらいの範疇に入ってしまうというのが、まわりのアメリカ人を見たり、アメリカでのキャンプにキャンプリーダーとして日本の子どもたちと参加したときの印象だった。KYな感じも、日本ほど問題視されることはない。

そうした環境の中で、ミニマリストに「まわりと違う自分でいるには、ちょっと勇気もいる」と言われると、それはかなり変人扱いされているんだね、と思わずにはいられない。

大学にもミニマリストの人はいる? カナダの大学生に聞いてみると、「キャンパスで出会ったことはない」と言う。学生時代はお金がなく、主義主張を持ってミニマルを目指すまでもなく、生活はきわめて簡素だから……という話は、アメリカの大学生も、カナダの大学生からも出てきた。「ミニマリストっていうのは、経済的、社会的な地位のある人が、一つのライフスタイルとして提案するものだ」という意見もあった。食うや食わず、専攻によっては就職もかなり厳しい北米の学生の目には、ミニマリストは、豊かな経験を十分に積んだ上で、あえてそこから離れようとする恵まれた人の提案だと映るのかもしれない。

■移民層には通用しない考え方

移民層を中心に、経済的に厳しい生活を強いられている人たちは、まずは平均的なライフスタイルに追いつくことに必死になる。みんなが持っている物は欲しいし、みんなが食べに行く店には自分だって行きたい。そういう人にミニマリズムは通用しない。これは、アジア系、アフリカ系移民の学生たちから出た言葉だ。豊かさの上に成り立つ、アメリカのミニマリズム。

日本のミニマリズムや断捨離はどうだろう。やはり、ある程度の物欲が満たされて初めて行き着くものなのだとすれば、非正規雇用者の拡大する若い層には、厳しい考え方ということになる。

洋服も家具も、自分らしさを探しながらいろいろな物を試し、失敗した先にあるミニマリズムはスタイリッシュかもしれないが、発展途上の若い人たちには、自分を試す機会を奪う、あまりありがたくない考え方なのかもしれない。

■いつから質素は「美徳」になったのか

学校の校則で「華美なものを避ける」「華美ではないものを」という文言に出あったことのある人は多いだろう。服装規定などでお約束のように出てくるのは、この「華美なものはダメ」という考え方だ。

ちなみに「華美」の対義語は「質素」である。質素倹約といえば、享保の改革を断行した徳川吉宗。その精神は軍人勅諭に受け継がれ、「凡(およそ)質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華美(きょうしゃかび)の風を好み遂には貪汚(たんお)に陥りて」ろくでもないことになり、節操も武勇もその甲斐なく世の人につまはじきされるようになるぞ、と教え込まれた。そして、その精神は今でも多くの学校に受け継がれ、軍人勅諭のように「質素を旨とすべし」とまでは言わないまでも、「華美」はよろしくないものとして敵視されている。

第1部でも登場してもらった社会学者のアン・アリソンが指摘するように、よき母としての価値観が、学校教育を通して母親たちに刷り込まれていったとすれば、それと同時に日本の教育が刷り込んできたもう一つの価値観が、「華美はダメ。質素がよい」だろう。実現は難しくても、どこか心の中で「簡素な生活」を素晴らしいと無批判に受け入れてしまうのは、子どものころから、「華美はダメ。本当は質素な方が正しい」と、ことあるごとに刷り込まれてきているからではないだろうか。質素倹約が美徳として尊ばれるとすれば、その対義語である華美贅沢は敵なのだ。

■「華美はダメ」と言い続ける日本の校則

簡素でまったく物を持たない暮らしは、アメリカでは先のミニマリストのバボータ自身が認めるように、変人扱いされかねない価値観だが、日本では多くの人が、そうした暮らしを「素晴らしい」と考える。それどころか、そういう暮らしを実践している人を「立派」だと賞賛し、それができない自分を卑下(ひげ)してしまったりする人さえいるのは、ひとえに「華美はダメ」と言い続ける日本の校則のせいではなかろうか。そして、その源流が、江戸から明治にかけて受け継がれてきた質素倹約の精神にあると思うと、なんだかな、と思わずにはいられない。

アメリカでは、ミニマリストが自分のライフスタイルについて言及すると、まわりの人は自己弁護をしたり、消費文化のどこが悪いといった議論になってしまうというが、「質素倹約が旨」の浸透した日本では、そうしたことはついぞ起こらない。

起こらないどころか、質素倹約ができる人は一段上、できなかったら、できるようにならなくちゃというプレッシャーさえ感じる。それがどこから来るかといえば、みんなが学校で刷り込まれたであろう同じ価値観をがっちり共有してしまっているところからだ。

■日本と米国のミニマリズムはどこが違うか

先に登場した、3児の母であるミニマリストのレイチェルは、子どもの1人に障害があることを告白しつつ、子どもたちとの日々の暮らしの中でのシンプルさの必要性を強調する。

「自分ではコントロールできないぐらいに物事が複雑になってしまうと、自分でコントロールできるように、できるだけいろいろなことをシンプルにしていかなくちゃと感じます。息子に障害があることで、私はミニマリズムそのものについて、また、その必要性について学びましたが、同時に息子が暮らしやすくするためにそれが必要だということも、学んだのです(※2)」

レイチェルは、障害のある息子とその兄弟たちが気持ちよく暮らしていく方法の一つとして、ミニマリズムを取り入れている。それは基本的に便宜的な生活手法の一つであって、道徳観とは一線を画したものだ。

ここが、日本の断捨離やミニマリズムとは違うところではないだろうか。道徳的価値としての質素倹約が根深く浸透している日本では、あるべき姿としての質素倹約、道徳的に一段評価の低い華美贅沢という価値観になってしまう。

■華美も贅沢も質素も一つのライフスタイル

以前、学校見学をさせていただいたスウェーデンのゴットランドにある公立高校では、授業中のアクセサリー着用が禁止されていた。しかし、華美がいけないからではない。授業中に音がしたり、きらきら光ったりすると、本人も他の生徒も集中できず、授業の邪魔になるからだ。従って、休み時間にアクセサリーをつけることは認められている。生徒たちは、教室に入ると、アクセサリーを一つ一つはずして所定の皿に入れ、それを先生が預かる。授業が終わってからまた一つ一つつけて、次の授業の教室に行き、また一つずつ外す。

毎回それをやるのも、それにつきあう先生方もご苦労なことだと思ったが、本人の意志を尊重し、いろいろな価値観を認めるという意味では素晴らしい。「華美はいけない」「こんなものをつけて授業を受けるなんて」という先生はいないし、ましてや「華美に走る不良学生」などという認識も、どちらにもない。

華美も贅沢も質素も一つのライフスタイルだ、ととらえられる下地の上であれば、断捨離の実践者が偉くて、それができない自分は恥ずかしいなどという発想は出てこない。断捨離がいいという価値観もあれば、物がたくさんあってもいいではないか、ついでに言うならば、物がたくさんあっても、必要なときに必要な物が取り出せればそれでいいのではないかという価値観がベースにある社会でのミニマリズムは、日本の道徳観の絡(から)むミニマリズムより、ずいぶんと気軽なライフスタイルに見える。

※1:https://bemorewithless.com/the-downside-of-minimalism/
※2:http://www.theminimalistmom.com/2017/05/what-my-sons-disabilities-have-taught-me-about-minimalism/

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佐光紀子(さこう・のりこ)
翻訳家、ナチュラルライフ研究家
1961年東京都生まれ。1984年国際基督教大学卒業。繊維メーカーや証券会社で翻訳や調査に携わったあと、フリーの翻訳者に。とある本の翻訳をきっかけに、重曹や酢などの自然素材を使った家事に目覚め、研究を始める。2002年、『キッチンの材料でおそうじするナチュラル・クリーニング』(ブロンズ新社)を出版。以降、掃除講座や著作活動を展開中。2016年上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士前期課程修了(修士号取得)。

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(翻訳家 佐光 紀子)