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古い建物を大切に使ったり、リニューアルして使うのが上手な台湾の方たち、日本統治時代の家屋がカフェ&レストランに生まれ変わりました。

台湾に今も残るたくさんの日本統治時代の建築。総統府や国立台湾博物館など、多くの公共建築が今も大切に使われているのと同時に、日本家屋がカフェやレストランなどに改造されたりして今も活躍しています。日本から台湾を訪れる人々が「どこか懐かしい」と感じるのも、こうしたところに要因があるのかもしれません。

今日はまたひとつ、戦後長らく保存されてきた日本家屋がカフェレストランとして生まれ変わり、新たな観光スポットになったと聞いて、昔の家屋が多く残る「青田街」へやって来ました。

青田街とはいずこ?

青田街は新生南路と和平東路が交わるあたり、国立台湾師範大学と大安森林公園に挟まれたエリアで、閑静な住宅街として知られています。同時に高級住宅街でもあり、豪華マンションや静かな佇まいの邸宅が軒を並べています。「青田」の名前どおり、緑があふれていて、喧騒あふれる台北の街とは違う時間が流れているかのよう。

また、すぐお隣りが鼎泰豊やマンゴーかき氷でお馴染の永康街、西側が学生であふれる師大夜市を擁する龍泉街。台湾観光局では現在、永康街・青田街・龍泉街に囲まれたエリアを「康青龍」と名付け、積極的にアピールしているようです(なんだか「谷根千」みたいですね)。
それでは早速出掛けてみましょう。MRT「古亭」駅から15分ほどかけて学生街の雰囲気を楽しみながら歩き、帰りに永康街や師大夜市、台湾大学周辺の公館エリアへ移動するもよし。「暑い季節に歩くのはちょっと」という方はタクシーでチョリーンと乗り付けてもOK。ナビプラザからだと10分ほどです。

時代を見つめ続けた家


続いて、この「青田七六」が歩んで来た歴史をご紹介しましょう。日本統治時代、この青田街周辺は「昭和町」と呼ばれていました。現在の新生南路は用水路で、その東側は見渡すかぎり田んぼだったとか。現在では用水路は埋められ、東側は大安森林公園として整備されていることを考えると隔世の感がありますね。今も当時もこの一帯は文教地区として開けていて、南側には台北帝国大学(現在の国立台湾大学)、西側には台北高校(現在の国立台湾師範大学)がありました。
1928年(昭和3年)に台北帝大が開校し、日本内地から学生や教職員が招聘されました。しかし開校に前後して問題となったのが、教授やその家族、職員などの宿舎をどうするかでした。そこで、大学にほど近い、青田街や温州街、泰順街などに次々と宿舎が建設されていったのです。このエリアには今でも当時の面影を残す日本家屋がたくさん残されており、まだまだ現役で使われているものや政府の管理下で保存されているもの、カフェやレストランなどに改造されて生まれ変わった家屋を多く見ることが出来ます。こうした風情のある日本家屋は台湾の若者にも人気のようで、休日にはこれらをモチーフに撮影したり、結婚記念写真を撮影する舞台にするカップルの姿も見られます。
この一帯は台北帝大の教職員が数多く住んだことで落ち着きのある一帯となりましたが、今日ご紹介する「青田七六」の主となったのは理農学部で応用微生物学の教鞭をとった足立仁教授。足立教授は北海道出身で、ドイツ、イギリス、アメリカにも留学した超エリート。戦後も微生物学の権威としてその名を知られました。また、奥様は日本敗戦時の首相を務めた鈴木貫太郎の次女で、経歴も家庭も華やかな上流階級だったようですね。
戦後、この家の主となった馬廷英教授

戦後、この家の主となった馬廷英教授

さて、日本が台湾を去り、替わってこの家の主となったのもやはり大学の先生でした。新しい家主は国立台湾大学で地質学を研究していた馬廷英教授。遼寧省生まれの馬教授は戦後、台湾へとやって来ました。奇しくも、馬教授は日本の東北帝国大学出身。最後に娶った奥様は日本人というから、縁とは不思議なものです。
終生、この家を愛した馬教授でしたが、1979年に死去。その後、この家で暮らしていた奥様が亡くなって空き家になって以降は、国立大学の資産のため、政府が管理していました。
その後、こうした日本時代の家屋を有効活用しようということになり、民間と協力して実現したのがこちらの「青田七六」なのです。

前置きが長くなりましたが、いよいよ中へ入ってみましょう。
門をくぐると正面に現れるのは瓦屋根の日本家屋。左手には庭が広がっています。そこかしこに植物が生い茂り、まるでミニ植物園のよう。
今日ご案内してくれるのは、この青田七六の改修から管理運営までを担当している「黄金種子文化事業有限公司」の責任者である簡肇成さんと楊新淇さん。簡さんは水瓶子というペンネームで日本統治時代の建築や古跡について数々の論考をブログなどで発表しています。
水瓶子こと責任者の簡さん

水瓶子こと責任者の簡さん

優しい語り口の楊さん

優しい語り口の楊さん

これはなんじゃ?

まずは玄関の右手にご注目。なんだか面白そうなものが並んでいますね。まずは下の段からご紹介。実はオーナーの簡さんともう一人の方は、2人とも戦後この家に住んでいた馬教授の教え子。学生時代には何度もこの家に遊びに来たことがあるそうです。
というわけで、下の段に展示されているのは、離島も含め、台湾全島から集められた石の標本が全部で108個。それぞれに、石の種類、採掘された場所とその座標、台湾大学の通し番号が記されています。こうして見てみると、やはり花蓮をはじめとする東海岸が多いようです。やはり起伏に富んだ地形ゆえに地質の変化が多いということでしょうか。

また上段には1年間365日分の「誕生花」とそれにまつわるエピソードが描かれています。ちなみに誕生日が6月20日のナビの誕生花は「使君子」(聞いたことない!)。そして、その人の個性が記されています。これらすべてがきちんと占い師を呼んで表記してもらったというから驚き!自分の誕生花を探してみるのはもちろん、友だちや彼氏彼女の誕生花を探すのも面白いですね。
今日の日付には赤丸が

今日の日付には赤丸が

6/20はナビの誕生日。忘れずに!

6/20はナビの誕生日。忘れずに!

うーん、いい香り



そして、玄関に向かって左側の庭に横たわるのは樟脳の巨木。リニューアルにあたり、台北市北部の萬隆から運ばれたもので、今でも近寄ると樟脳の香りが漂ってきます。

外から眺める家屋は、瓦屋根が載った日本式ながら、出窓があったり玄関ポーチが張り出していたり、百葉窓があったりとどこか西洋式の雰囲気を取り入れています。これは1930年前後の日本時代、日本家屋に西洋の趣を取り入れるのが流行したからだそう。特に、この近辺の家は大学教授が多く住んでいたため、そうした進取のセンスを取り入れるのに敏感だったようです。


玄関を入ったら、こちらで靴を脱いで下さい。必ず靴下の着用をお願いしているそうで、これは人間の脂によって廊下などが痛まないためだとか。もしサンダルなどでお出掛けになった場合でも、その場で靴下を購入することが出来ますので安心して下さいね。貴重な建築物を守るための方法ですので、ご協力をお願いします!


玄関の左側には応接間が広がっています。こちらには馬教授が晩年に残した文物やゆかりの品々がそのまま残されています。驚くことに、この家屋全体が釘を一切使わずに建てられたもの。そのため、釘が露出している本棚などの部分は、戦後に馬教授や家族が自分で取り付けたものだと一目で分かってしまうそう。

この家で生まれ育った思い出を

ここで簡さんが紹介してくれたのが馬國光さん。馬廷英教授のご子息です。馬國光さん自身も、台北の世新大学の放送学科で教鞭をとっていました。また、亮軒というペンネームで小説や詩を書いていて、なかなかの有名人のようです。馬さんはこの家で生まれ育ち、結婚するまで過ごしていました。私たちが取材に来たことを知ると、色々と当時のエピソードを話してくれたのです。

父の馬廷英教授には戦中、戦後を通じて3度結婚し、5人の子供をもうけました。2人目までは中国で結婚した奥さん、3人目は日本で知り合った千鶴子夫人です。馬國光さんにとっては継母でもある日本人のお母さんは、中国語がほとんど出来なかったため、なかなか馴染めなかったそう。夫である馬教授が亡くなった後は、近所に住む日本語を話せるお友達がいつも話し相手に来てくれたこと(当時はまだ日本語を話せる世代が多かった)。結局、自分は結婚後、この家を出てしまったけど、異国で残されたお母さんを想うと本当に可哀想だった、と回想していました。
馬國光さんは平日、ほぼ毎日午前中こちらへ来て、この家に関する故事をまとめた本を執筆中です。「本当は別の本を書いていたんだけど、やはり自分の住んでた家がこうしてリニューアルされたんだから、なるべく早めに出したいと思ってね」と青田七六に関する本を優先させているそうです。
戦後間もなく、父親の馬廷英教授に遅れて台湾へやってきた馬國光さんですが、もともとこの家に住んでいた足立教授と共通の友人がいたことが縁となり、一家でこちらへ住むことになったそうです。馬教授もこの家が気に入り、大きな改修を施すことなく、ほぼ原形のまま大切に住まわれたそうですが、馬國光さんは「私にとっては幼いころから慣れ親しんだ家。みんながこうして見学に来るのはなんだか奇妙な感じがするよ」と苦笑いでした。

ほかのお部屋も探検!

廊下を挟んで右手には畳の小部屋が。畳なのに開き戸というのは和洋折衷の表れでしょうか。冷房も効いていて、昼寝したくなりそうです。ピカピカに磨き上げられた廊下の突き当たりには中庭が広がります。テラス席もあり、ちょっと涼しくなった夕方や春秋には木立に囲まれて気持ちよさそうですね。
ところどころに南洋植物が植えられ、今は埋め立てられてしまいましたが当時は庭にプールがありました。これは、日本時代の主、足立教授が身体の弱かった子供のために作らせたのだそう。ガラスを通してみる中庭はちょっと歪んでいます。そう、このガラスも当時からのもの。手作りのガラスがより一層懐かしさを感じさせてくれます。
廊下を左手に折れると左側には、戦後、馬教授が書斎として使われた部屋。しかし、足立教授の時代には食堂として使われていたようです。

というのも、こちらにご注目。神棚を安置するための棚がありました。神棚は、家族が集まる食堂に置かれることが多いことから、以前はこの部屋が食堂として使われたのだろう、と推測されています。
そのおとなりには子供部屋。こちらも改修されてお食事をとることが出来ます。そして突きあたりがちょっと大きめの畳部屋。ナビ一行はこの静かな畳のお部屋でお食事をいただくことが出来ました。

食事とお飲み物のご紹介♪



では、一通り見学も済んだところで肝心のお食事をいただきましょう。
今日ご紹介するセットは3種類です。

「お刺身定食」ランチ360元/ディナー460元

「チーズトンカツ定食」 ※2014年7月現在こちらのメニューはありません

「しゃけ西京焼定食」 ※2014年7月現在こちらのメニューはありません
どれもボリュームたーっぷりでとても食べきれないのでは?と心配していたら、ナビ子はもちろん、ナビママも完食。見た目ほどのボリュームはなく、どれもさっぱりした味付けなので、女性でも美味しく食べられたようです!
セットメニューのほかにも、単品やベジタリアンに対応した料理がありますので、詳しくはメニューをご参照下さい!

お飲み物は次の3品をオーダー。


カプチーノ 150元
スチームミルクに描かれた模様がかわいい!一杯ずつ丁寧にマシンで淹れています。
ザボンとグレープフルーツのフレッシュジュース  ※2014年7月現在こちらのメニューはありません

ザボンとグレープフルーツのフレッシュジュース  ※2014年7月現在こちらのメニューはありません

特秘東方茶 160元

特秘東方茶 160元

ただ、厨房が狭く、混雑している時間帯にはちょっとお待たせしてしまう場合もあるとのこと。出来れば時間に余裕を持って、畳の部屋で脚を伸ばしながらのーんびりと待つことを、ナビからもオススメします。


ふと目をやった曇りガラスにはイタズラ書きのようなものが。「有朋自遠方来 不亦楽乎」。遠くから友人が訪ねて来てくれることはとても嬉しい、の意味。案内してくれた楊さんに聞くと、どうも馬家の子供の誰かが、その日に学校で習った漢文をここへ書いたのだろう、ということ。

日本時代に建てられ、戦中戦後の時代を見守ってきたこの家へ、台湾から日本からたくさんの人々が集まり、食事をし、おしゃべりをして帰っていくのを、この家も「また楽しからずや」と喜んでくれているでしょうか。


せわしい旅の最中、街の喧騒から離れ、この家でちょっと小休止してみませんか。
以上、台北ナビがお伝えしました。

記事登録日:2011-09-06

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上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

スポット登録日:2011-09-06

スポット更新日:2014-07-17

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