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<毎日新聞1945>進駐軍上陸と「性」 将兵による暴行、検閲

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 1945年9月2日、日本政府代表は東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ上で降伏文書に調印した。その様子を大きく伝えた翌3日朝刊1面に「急告 特別女子従業員募集」と小さな告知が載った。「衣食住及び高給支給 前借にも応ず。地方よりの応募者には旅費を支給す」。待遇の説明だけで肝心の仕事内容に触れていない。

 告知主は「特殊慰安施設協会」。進駐軍による強姦(ごうかん)を恐れた政府が性的慰安施設設置を決めたことを受けて設立され、従業員集めを急いでいた。「従業員に『芸妓(げいこ)、公私娼妓(しょうぎ)、女給、酌婦、常習密売淫(ばいいん)犯者等』を優先的に充て『良家の子女』を守るための『性の防波堤』とする」計画。全国に設置された慰安施設は、性病のまん延や米本国での批判の高まりを受け7カ月で閉鎖された。

 8月15日、突然敗戦を迎えた国民の間には「男は肉体労働に使われる。女は犯される」との風評が広がった。進駐軍上陸が迫る神奈川県では、県が率先して女性職員に退職金を配り疎開させた。女性社員を自宅待機とした会社も多かった。16日以降、上野駅や新宿駅は大混雑する。運輸省は疎開する女性たちに無賃乗車の便宜を図り、混乱を助長したとして後に問題になった。

 毎日新聞も連日、進駐軍に対する女性の心構えを説く。見出しを拾うと、締めよ心の武装 モンペ離すな(8月17日)▽女性よ試練にうち克(か)て 純潔こそ婦道の礎(8月19日)▽こんな態度は禁物 無意味な笑顔は禍(わざわい)の基(8月29日)−−。

 連合国による日本占領はおおむね平穏に行われたというのが通説だが、慰安施設や「心構え」では進駐軍による性犯罪を防ぎ切れなかった。9月9日朝刊に「婦女の拉致増加」の記事が載っている。「数名の米兵が自動車で来て通行中の婦女子を自動車の中に強制的に同乗せしめて連れ去る」と手口を紹介し、「恥を忍んで」交番や警察署に届け出るよう訴えている。別の日には被害者について「多くはこちらにも隙(すき)があるようだ」とさえ記し、手を振ったり微笑を返したりしないよう強く戒めている。

 しかし、連合国軍総司令部(GHQ)は進駐軍による事件の詳細を公にすることを許さなかった。GHQによる新聞検閲に対応した毎日新聞社の検閲部によると、進駐軍の暴行を記事にするのは厳しく制限された。表現についても「『大男』は通ったが、『背が高く色が……』とするとだめだった」(毎日新聞社史「『毎日』の3世紀」)。

 占領期を通じ、進駐軍の将兵と日本女性の間に多くの子供が誕生した。強姦だけでなく、生活のため将兵相手に売春をする「パンパン」、基地で働く女性に目立った「自由恋愛」などによって。その数は1万人とも言われるが、将兵のモラルの低さを示す証拠とも言える存在を認めたくないGHQの意向で、占領期間中の報道はほとんど見られない。

 三菱財閥創始者の孫、沢田美喜氏は著書「混血児の母」で記す。47年2月、すし詰めの夜行列車で、風呂敷にくるまれ網棚に置かれた肌の黒いえい児の遺体に出会う。沢田氏にかけられた捨て子の疑いは晴れたものの、その後も東京・歌舞伎座裏の共同便所、神奈川・鵠沼の川、駅の待合室と立て続けに金髪や黒い肌の孤児の姿を目撃する。

 沢田氏は48年、実家・岩崎家の神奈川・大磯の別荘に養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を開設。こうした子供たち約2000人を引き取って育てたが、当初は施設の存在を知る人は少なかった。子供たちの存在が、ようやく新聞で取り上げられるのは、日本が独立した52年以降だ。最も早く生まれた子供たちが小学校入学を迎える時期と重なり、一般児童と同じ学校に通わせるべきかが社会問題になった。【伊藤絵理子】

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