バッタもん日記

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おじいさんは山へしばかりに −日本における森林の利用と破壊の歴史− その1 概略

おじいさんは山へしばかれに行きました。おじいさんはドMでした。

1.はじめに

昔話の「桃太郎」の冒頭は、「おじいさんは山へしばかりに行きました」で始まることが一般的です。では、この「しばかり」とは何を意味するのか。このネタは森林学の書籍を読むと、高い確率で出てきます。
現代の日本に生きる我々の感覚としては、「芝刈り」が容易に想像できると思います。しかし、正解は「柴刈り」です。「芝」と「柴」はどう違うのか、おじいさんはいかなる目的で「柴刈り」に行ったのか。今回の記事では、森林の利用と破壊を中心として、日本における環境問題の歴史を考えてみたいと思います。
とても1本の記事でまとめられる分量ではないので、数回に分割して掲載します。この記事では、導入と内容の整理を兼ねて、概略を示します。科学論文の冒頭に「abstract」が掲載されているようなものとお考え下さい。
なお、後の記事でも繰り返し強調しますが、「かつての日本は環境に優しかった」「現代の日本は環境に優しくない」という俗説は必ずしも正しくない、ということは最初に強調しておきます。現実はそれほど単純ではありません。現代の日本は森林に非常に優しいこと、森林資源が急速に回復していることかつての日本ははげ山だらけだったことを覚えておいて下さい。
この分野の名著、「日本人はどのように森をつくってきたのか(コンラッド・タットマン著、熊崎実訳、築地書館)」Pより引用します。

今日の青々とした緑は第二次世界大戦後の数十年の森林回復によるものであって、(中略)この数十年の植林と自然更新により国土の大きな部分が若い造林地と天然林に覆われ、日本は他の温帯地域のどこよりも森林の豊かな国になった。(P27)

日本の歴史で深刻な森林消失の見られた時期が三つある。その最初のものが古代の略奪期であって、あとの二つは近世の一五七〇〜一六七〇年と現代の二〇世紀前半に起こっている。(P30)

参考文献は最後にまとめて紹介します。

2.植生の種類と変化

(1)日本の植生

世界的に見て日本は気温と降水量に恵まれているため、寒冷な高山地方や、浸水と土壌の浸食・堆積が繰り返される河川沿岸、厳しい潮風や砂嵐に曝される海岸、土壌に水分が多すぎるため樹木が育たない湿地などでない限り、長期的には森林が成立します。言い換えると、森林以外の植生(草原など)が成立している場所では、人為的な植生の破壊(改変)が行われたということです。
例えば、熊本県阿蘇山の草千里は広大な草原で有名ですが、あの植生は家畜の放牧と草刈り、火入れにより維持されている植生です。つまり、純粋な自然の植生ではなく、半人工・半自然の植生です。人間が農業に利用するために改変した植生です。だからダメだと言っているわけではありません。念のため。阿蘇の草原は生態学的に非常に重要です。

(2)利用・破壊による植生の変化

人間の影響を全く受けない自然環境でも、植生は常に変化しています。これを「遷移」と言います。長期に渡って環境が安定して破壊を受けなかった場合、遷移は止まります。この遷移の最終段階を「極相」と呼び、極相に至った植生を「極相林」と呼びます。ただし、極相林と見なされる森林でも、枯死や風水害により樹木が倒れた時にできた隙間(「ギャップ」と呼びます)では、小規模な遷移が起こります。つまり、極相林でも部分的な破壊と再生は常に起こっています。また、現在の地球上では人間活動の影響を受けていない植生は事実上存在しないので、「極相」という概念をあまり重視しない研究者も多いようです。

植生は利用(破壊)と保護(放置)により、可逆的に変化します。植生がなくなったために土壌が風雨による侵食を受けて流失してしまい、植生が回復できなくなった場合は別ですが。*1利用(破壊)が弱いと遷移が進み、強いと遷移が逆行します。主に西日本を中心とした温暖地の植生の変化を簡略に表すと、次のようになります。

裸地(はげ山)⇔草原⇔低木林(藪)⇔マツ林⇔落葉広葉樹林常緑広葉樹林照葉樹林・極相林)*2

「芝」とはイネ科を中心とした背の低い草を意味します。同じくイネ科を中心とする背の高い草(主にススキ)は「茅(かや)」と呼びます。「茅葺き屋根」の「茅」です。「柴」とは主に低木の枝を指します。用途は燃料です。おじいさんは山へ燃料の調達に行ったわけです。

(3)植生ごとの用途の違い

上に挙げた植生の用途を簡単に示すと、以下のようになります。

(3-1)草原:肥料・家畜の飼料・家畜の敷料・各種資材(茅葺き屋根など)

草原の草は農地の肥料として重要です。諸条件により比率は大きく変わりますが、江戸時代には田畑の10倍ほどの面積の草原を必要としたとの研究があります。

(3-2)低木林:燃料・肥料

低木の枯れ枝は燃料に、落葉は肥料になります。

(3-3)マツ林:燃料・肥料

マツは油分(松脂)を多く含んでいるので、枝や葉はいい燃料になります。マツタケも重要な収入源でした。

(3-4)落葉広葉樹林:燃料(柴・薪・炭)・肥料(落葉)・材木

いわゆる里山です。薪や炭を取るための森は「薪炭林」と呼ばれました。そのまんまですね。薪炭林の樹種は、昆虫好きならばお馴染みの、クヌギ・コナラ・クリ・アベマキなどのブナ科(ドングリの木)が中心です。成長が早いこと、切り倒しても切り株から芽が出て再生する能力(萌芽再生力と言います)が高いことが特徴です。

(3-5)常緑広葉樹林

集落に近い森林は全て利用されるため、天然の森林は集落から遠いか、地形が険しいために利用が難しい場所にしか残りません。そのような森林は里山と対比する形で、「奥山」と呼ばれます。

3.日本の森林の利用と破壊の歴史

(1)縄文時代

日本人は既に縄文時代から森林を積極的に利用していました。大陸から稲、雑穀、イモ類などの作物の栽培技術が導入される以前は、獣肉と並んで木の実が重要な食物でした。東日本で特に重要な食料源はクリでした。またクリは木材としても有用でした。青森県三内丸山遺跡の土壌を分析すると、周辺地域の土壌と比較してクリの花粉が極端に多いこと、クリの遺伝的多様性が低いことから、クリが栽培されていたことが明らかになっています。集落の消滅によりクリ林も消滅したと考えられています。なんとなく、栗廃る。

(2)古墳時代平安時代初期

大和王朝は奈良・京都・大阪を中心に、遷都を繰り返しました。その度に都や寺社の建設が行われましたが、建材としての木材の需要は膨大だったようで、時代を経るごとに材木の供給先が都から遠ざかる傾向が記録から読み取れるそうです。

(3)戦国時代末期〜江戸時代

戦国時代には全国の大名が富国強兵のために城郭や砦、城下町を整備したため、膨大な木材が消費されました。
徳川家康が江戸に幕府を開いたことにより、日本は統一国家となりました。政治が安定したため、人口が急増しました。そのために農地が拡大し、肥料需要が増加しました。また、経済活動も発展したため燃料や建材としての木材の消費量が増加しました。ゆえに、江戸時代前半に森林面積は大きく減少しました。浮世絵を見ると、背景にははげ山が目立つそうです。
江戸時代後半には、幕府や各藩が森林資源の荒廃と水害、土砂災害の多発に危機感を覚えて森林保護政策を実施し、さらに人口増加が停止したため、森林面積は回復しました。なお、この時期に日本の林業は、自然に育つ木を伐採するだけの収奪・放置型から、植林を行う育成型に変化したようです。
また、江戸時代全般に、日本全国で森林や草原の利用権、境界線を巡って紛争や訴訟が絶えなかったそうです。

(4)明治時代

明治時代前半には、人口が急増したこと、産業振興が最優先課題とされたこと、江戸時代の幕府や各藩の森林保護政策が破棄されたことにより、森林破壊が急速に進みました。林保護が反故にされたわけです。
後半になると、やはり明治政府が森林資源の荒廃に危機感を覚えて若手の官僚をドイツに留学させ、当時の世界最先端の林業を学ばせました。ドイツ流林業と日本の伝統林業の融合により、森林資源は回復し始めました。この時期の林業の大きな成果の一つが明治神宮です。

(5)戦中・戦後

アメリカに石油の輸入を止められたため、燃料としての木材の需要が増加しました。さらに、食料増産のために森林が農地に変えられました。戦後も、復興のために膨大な木材の需要がありました。そのため、全国で森林の荒廃が進み、至る所にはげ山があったようです。

(6)高度成長期以降

林業振興のために植林が進んだこと、一方で国産材が外材に価格競争で敗れために林業が衰退し、森林伐採が行われなくなったこと燃料が木材から化石燃料に移行したこと化学肥料が普及したことなど様々な理由により、現代の日本では資源を森林に依存する必要がなくなりました。そのため森林資源が急速に回復しています。日本からはげ山はほぼなくなりました。

4.森林を破壊する産業

産業が森林を破壊するのは現代に始まったことではありません。大昔からよくあることです。思い付くままに具体的な産業を列挙すると、以下のようになります。後日の記事で個別に説明します。特に養蚕は説明を要しますね。

金属生産(特に製鉄)
製塩
窯業
養蚕 養蚕はようさん木を使う
鉄道

5.森林破壊に起因する災害

森林破壊は様々な災害の原因となります。上に同じく具体的に挙げると、以下のようになります。後日の記事で個別に説明します。特に獣害については少々詳しく考察します。

水害
土砂災害
飛砂害(海岸部の砂嵐)
獣害

6.人口増加と森林破壊

環境問題の原因を突き詰めると、ほとんどが人口増加です。森林破壊が進む時代はほぼ例外なく人口が増加している時代です。高度成長期以後に日本の森林が回復途上にある理由として、人口増加が停滞しているという点も無視できないと思います。

7.森林に付随するあれこれ

小ネタを少々。

(1)白砂青松は人工林

日本の海岸ではクロマツ林が成立していることがよくありますが、あれはほとんどが人工林です。クロマツ林は森林破壊の産物です。

(2)砂浜の縮小

(1)とも関係しますが、日本全国で砂浜が縮小している理由の一つは森林資源の回復です。

(3)マツタケの高騰

マツタケが希少な高級食品になった理由も森林資源の回復です。意外ですが、マツタケの生産を増やすには森林を破壊する必要があります。

(4)京都嵐山の紅葉

景勝地や神社仏閣の植生も大きく変化しつつあります。嵐山の紅葉も、積極的な保護を行わなければ今後消滅する可能性が高いと考えられています。

(5)火山と植物学者

火山が噴火すると植物学者が喜びます。もちろん、不謹慎を承知の上ですが。
その理由は、溶岩や火山灰、火砕流などにより地面が覆い尽くされて植生が消滅した場合、遷移を観察できるからです。時間は掛かりますが。森林学や植物生態学の書籍には、必ず伊豆大島三原山や、鹿児島の桜島の事例が出てきます。特に、今も噴火中の小笠原の西之島新島のように、陸地から遠く離れた海域に海底火山の噴火により新しく島ができた場合は格別です。植物の侵入経路が限られていますので、いつどのような植物が定着するかが学術的な関心を大いに集めます。*3

8.植生の保護をどう考えるか

上に述べたように、日本では利用条件により、様々な植生が成立します。そして、植生には非常に多面的な価値があり、単純に評価できるものではありません。生物多様性、景観、大気浄化、水害防止、土砂災害防止、水源涵養、娯楽、騒音防止、防火などなど。例えば、里山と極相林のどちらが優れているか、という比較は意味がありません。どちらも保護すべき重要な植生です。そして現代の日本で最も危機に瀕している生態系は、意外にも農地の草原だったりします。植生の多様性も保護されてしかるべきです。生態学的には「生物多様性」は「種の多様性」と「遺伝子の多様性」と「生態系の多様性」の三つよりなると考えられているわけですから。

参考:茶草場の伝統的管理は生物多様性維持に貢献(独立行政法人 農業環境技術研究所)

また、上に述べたように、日本の農業は森林や草原を必要としていました。それにより、里山が生まれました。これは日本が世界に誇れる農地生態系だと思います。しかし、現代の農業は構造の変化により、もはや森林や草原を必要としていません。大げさに言うと、里山は農業における存在意義を失ってしまったのです。そのような状況では、産業上の価値がない里山を守る社会的意義は何かを考えねばなりません。国も地方自治体も財政難に苦しむ現状では、「環境を守れ」とお題目のように唱えるだけでは何も守れません。

9.悪しき懐古主義

養蚕は蚕主義です。
「昔の日本は森林に優しく、現代の日本は森林に優しくない」とは決して言えません。それは不毛な懐古主義です。
江戸時代の農業がエコロジカルでサステイナブルだったとも必ずしも言えません。里山はある意味農地生態系の形としては理想ですが、非常に資源管理が難しかったため、江戸時代には全国各地で里山とは名ばかりの無惨なはげ山が広がっていたそうです。このはげ山こそが日本の原風景だったのではないか、と唱える研究者すらいるほどです。
また、人口増加や経済発展に伴う食料と換金作物の増産により、農村では常に肥料が不足していました。肥料は、一昨年の記事で説明したような都市部から運ばれる人間の排泄物や、農地周辺で採集される植物性肥料だけではとても足りず、北海道のニシンや九十九里浜イワシなどが魚肥として用いられました。はるか彼方の海から肥料を得たのでは物質循環が成立していたとは言えません。
環境問題を考える上で、「昔は良かった」などというノスタルジーは何も生みません。程度の差はあれ、今も昔も環境問題は厳然と存在しています。

*1:そのような光景は、古い文明が栄えた地中海沿岸部でよく見られます。

*2:実際の遷移は気温、降水量、土壌、周囲の植生(種子の供給源)、地形などの無数の要因の影響を受けますので、実に多様で複雑です。

*3:溶岩で覆われた西之島、花咲き鳥歌う島になるか(AFPBB News)