SODOMの1st EPと1stアルバムが一枚に詰め合わせになってます
これがまたすげーのなんの
ギターとベースはかっちり揃ってんのにドラムだけが意味のわからない拍を刻んでて、
それでいてキメはかっちり揃うっていう
一発録りかな?と思ってよく聞くとギターは一人しかいないのに左右でオーバーダブしている
マジでどうやって録ればこんなことになるのかさっぱりわからない
バンド全体がカッチリキマる度に嘘だろ!?ってなる
この時のドラムはすでに脱退していて、このアルバムの特殊過ぎる演奏は今では再現不可能だそうなオレはこういう下手糞な演奏でしか起こらない奇跡と感動をスカムロック現象と呼んでいます
昔、通ってた学校の先輩のやってる駄菓子菓子というバンドがありまして、
オレがまだ在校当時に彼らが度々「色物と呼ぶなかれ」という、
色物バンドしかいないイベントを組んでいたんですね
駄菓子自体は巧いバンドなんですが、イベント参加バンドはバカテクから下手糞まで手広くそろってまして
その中でも特に下手糞だったギターVoとベースと、打ち込みを録音したMDという編成のユニットが凄かったんですね
ギターもベースも本当に昨日今日始めたばかりなんじゃないかってくらい下手糞なのに、
ちゃんとオリジナル曲を揃えているだけでも驚愕に値するんですが、
ギターVoがギターソロに入った途端、チョーキングだけが無茶苦茶に巧いんですねこれが
で、それ以外はピキピキポコポコとまともに音が出ないのにチョーキングした瞬間だけ鳥肌が立つほど聴かせるんです
フロアはチョーキングする度にあまりのギャップに大笑いしながら盛り上がっておりました
こりゃあ次のイベントも見なきゃな!と思って行ってみたらですね、
ギターが全体的に巧くなってるんですね
チョーキングは相変わらず巧いんですが、なんていうかこう、まっとうな努力の結果という感想になってしまい、
あの日のあの感動はあの技術力の低さ故に起きた、まさに奇跡の「現象」だったわけですスカムロックに対する憧れのような物はエピフォンの安ギターを担いで上京する前から、
おそらくはオールナイトニッポン土曜二部のインディーズチャート上位にしょっちゅう上がってきてた、
「猛毒(バンド)」を聞いた時からずっとありまして、
その憧れが何物なのかを理解したのが多分、上記の「現象」だったんだと思います
Source: anond.hatelabo.jp
Source: anond.hatelabo.jp
そもそもエロなりきりチャットって何? と多くの方が困惑するか、あるいはブラウザを閉じているかと思うので、説明をします。
なりきり、と聞いて多くの方が想像されるのは、既存の商業キャラへのなりきりでしょう。たぶん。
ですがぼくがおもむろにやっていたのはいわゆる版権なりきりではなく、オリジナルキャラのなりきりでした。
なぜオリジナルかというと、ぼくが遊んでいた範疇でのエロなりきりチャットでは、エロが最優先だったからです。
多面的な描写がなされている版権キャラより、素人が軽率にその場でひねり出した記号的キャラの方が都合がいいわけです。
現在のDLsite.comでエロ一次創作が隆盛を誇っている現象とおおよそ同じと言っても良いでしょう。
例を挙げてみます。
当時、いえ今もあるのでしょうが、2shotチャットCGIなる概念があり、
これは先に入室した一人がもう一人を待ち、二人が部屋に入れば自動的に封鎖されるというシステムでした。
例えばぼくが『キャラ名「聖女アルマエイラ」募集文「幼馴染の聖女にド変態な行為をしてくださるゲス魔術師を募集しております」』という風に待機をすると、どこかの誰かがゲス魔術師のキャラクターで入室してくださる、という仕組みなわけです。
たまに募集文をガン無視して入室してくる輩がいるのでキックしたりします。
実際に入室者がいらっしゃれば早速プレイに、とは行かず、まず挨拶などをしつつプレイ内容の摺り合わせを行うことになります。
お互いの嗜好が歩み寄れる範囲でないと悲惨ですからね。
お相手様が「聖女の頭をカチ割って死姦したいです!」などと言い出したらぼくはぶったまげるしかありません。
なので、上のような曖昧な募集文は悪い例ですね。
「幼馴染同士の汁気多めなドログチャ濃厚ドスケベセックスがしたいです」などと改めるのが良いでしょう。
さて、どうやらお互いの性嗜好などが擦り合わせられる範囲だと分かればシチュエーション、プレイ内容などを決め、行為に及ぶことになります。
これをどのように記述していたかというと、「魔術士に夜這いされる聖女」というシチュエーションを例にしてみましょう。
聖女アルマエイラ>……すぅ、すぅ……。(真っ暗な部屋でぐっすりと寝入っている。穏やかな寝息とともに胸元がゆっくりと上下する)
これくらい簡素な描写で済ませることもあれば、
聖女アルマエイラ>……すぅ……。(真っ暗な部屋、ベッド上でぐっすりと眠っているいたいけな少女。男が部屋の扉を開けた瞬間、かすかな気配を感じ、夜色の寝間着に包まれたちいさな身体が寝返りをうつ。長やかなプラチナブロンドの髪がナイトキャップから白い頬を流れ、少女の愛らしいかんばせにかかる)……ん、ぅ……。(柔らかげな薄ピンク色の唇がふるふると揺れ、こぼれる寝息が唇を湿らせた)
情景などが伝わるように細かく書くこともあります。
この辺りはお相手様の文章の長短や趣味などに合わせることになります。
小説における地の文を括弧でくくり、括弧の外にセリフを記述しているわけですね。
便宜的にエロなりきりチャットとは言いましたが、やっていることは竿役とヒロイン役を分担してエロシチュエーションを創作する作業といっても良いでしょう。
人によっては流れや結末までガッチリ決めてやる人もいるようですが、ぼくの場合はおよそ行き当たりばったりでした。
行き当たりばったりということはつまり王道的な、悪く言えば無難な展開に収まるということでもあります。
と、この時の経験が現在もぼくのエロ小説書きとしての素地になっているわけですが。
ぼくがエロ小説を書き出すに至ったきっかけというのも、この遊びで不満を抱くことがしばしばあったからなのです。
なぜ不満を抱くに至るのか。趣味・嗜好の摺り合わせが不足しているのではないか。
そう言われても致し方ないところではありますが、ぼくが最も多かった不満は次の一点です。
子宮にチンポを突っこんでくる竿役が多すぎる。
なぜ子宮にチンポを突っこまれてしまうのか。
大抵の場合は、プレイの前にNG行為を伝えるのが通例になっています。
ところがぼくは「大スカ(うんこのこと)、グロはNGでお願いします」程度しか伝えていなかったわけですね。
シチュエーションを決めるとき、主に話題に上がるのは「これが好き」「こういうのをやりたい」というポジティブな内容です。
「これはいや」「これは嫌い」といったことはあまり言わないわけです。喧嘩になっても困りますし、話が進まないから。
お互いに「NGはこれとこれとこれです」程度のことしか言わないのですね。
で、ぼくは「子宮にチンポを突っこまないでください」とは言ってないので、子宮にチンポを突っこまれてしまったわけです。
そもそも子宮にチンポを突っこまれるとは思ってもいませんからね。「子宮にチンポを突っこまないでください」とは言ってないわけです。「乳首にチンポを突っこまないでください」とかいちいち言わないように。
子宮は赤ちゃん入るんですからチンポくらい入りますよとか、子宮にチンポ入るのはダメなのに処女がチンポ突っこまれて感じるのは良いんですかとか、そういう御託はどうでもいいんですよ。
とにかく子宮にチンポ突っこまれたくはないんですよ。痛そうじゃないですか。赤ちゃん通るんだから大丈夫でしょとかそういう問題じゃないんですよ。痛そうじゃないですか。
ところが、ぼくは子宮にチンポ突っこまれたくはないんですが、子宮口(ポルチオ)責めでアヘる展開は大好きなんですよ。
「同じようなもんじゃないですか」って違いますよ。全然違いますよ。
何が違うかきちんとした説明はし難いので省きますけど全然違うんですよ。
そういうわけでこれをNG行為として説明するならば「子宮にチンポ突っこまないでください。でも子宮口責めは大好きです」となるわけです。
めんどくさすぎる。
こんなのをいちいち相手にお伝えするのが面倒くさく、こんな注文をつけられる相手のほうもおそらく面倒くさいでしょう。
人の性嗜好というものはかくも面倒くさい、という話です。
結果、ぼくは思い至ったわけです。
もう自分でエロ小説書いたほうが良くない? と。
そうしたらぼくの性嗜好の思うがままに書けるわけで、似通った趣味の人が楽しんでくれるのならばなお良いよね、と。
……そんなどうしようもないきっかけからエロ小説を書き出したわけですが、賞を頂き、電子出版までしてもらえることになるのですから世の中わかりません。
あなたにとってつまらないゲームでも、誰かにとっては神がもたらした奇跡のような一作なのかもしれないのだから
2017/4/2 : 無題。(きのこ)■ 今年も一日限りの祭りが終わりました。
最後に、笑顔で手を振って「BYE BYE」と言わせてあげたかったんだ。
Source: typemoon.org
アドバイスしたがる人と良い経験を積んだ人の違いは何か。
アドバイスしたがる人は他人の役に立とうとする。良い経験を積んだ人は結果的に他人の役に立っている。
アドバイスしたがる人は自分の持ち場以外に意見しようとする。良い経験を積んだ人は自分の持ち場でより良い結果を出しそれが他人の幸せにつながっている。
アドバイスしたがる人は出来ない理由を並べる。良い経験を積んだ人はどうすればより良い結果に結びつくか考える。
アドバイスしたがる人は根拠のない不安を煽る。良い経験を積んだ人は不安を取り除く方法を考えて示す。
アドバイスしたがる人は今ここにいない誰がどう思うかを代弁しようとする。良い経験を積んだ人は今ここにいる自分の考えを自分の言葉で話す。
アドバイスしたがる人は自分の仕事をまっとうだきないのに他人の仕事に口を出す。良い経験を積んだ人は自分の仕事をまっとうして他人の仕事に口を挟まない。
アドバイスしたがる人は自分が正しいということを分からせようとする時間が人の邪魔をしていることに気がつかない。良い経験を積んだ人は人の邪魔にならないことが一番の協力だということを経験から学んでいる。
そしてなによりの違いは、アドバイスしたがる人は心が不健康で、良い経験を積んだ人は心が健康だ。そして良い経験を積んだ人は幸せだ。
よく言われるように1954年版「ゴジラ」は、ビキニ環礁でアメリカ軍が行った核実験や、それに伴う第五福竜丸の被爆事件から発想されています。ゴジラはいわば、当時の日本人が漠然と抱いていた恐怖感の象徴であって。それが、たった9年前に空襲で焼き尽くされた東京に再度上陸してくるところに、この映画のリアリティがあったわけですよね。つまり、重要なのはやはりゴジラそのものじゃなく、ゴジラが破壊しようとする人々の未来だった。
──言われてみればそうですね。
ところが、シンボルである怪獣のデザインがあまりに秀逸だったため、作品を重ねるごとに、キャラクターとしての側面ばかりが強調されるようになった。初代「ゴジラ」の脚本のコンセプトからは次第にずれていったと思うんですね。それを全部チャラにし、再度“ゴジラに踏まれる側の物語”を描こうとしたのが庵野総監督の「シン・ゴジラ」だったと僕は解釈しています。脚本を拝見してそう感じました。
──「シン・ゴジラ」ではそれが2016年の東京であり、日本の統治機構であり、その中枢や最前線で働く人々であったと。
ええ。もっと言ってしまえば、個人や家族などの単位を超えた“社会そのもの”ですよね。劇中では膨大な人物が描かれますが、彼・彼女らはすべてなんらかの組織や機関に紐付けられていて、あくまで社会の一断面として造型されている。「シン・ゴジラ」を優れた群像劇と評する人もいますが、僕はちょっと違うと思うんです。むしろ、いろんな職務の人が渾然一体となって、だんだん1つのキャラクターに見えてくる。脚本的にはそこが一番すごいなと。
──確かに映画が進むにつれて、ゴジラに立ち向かう人々が、1つの集合意識みたいに感じられてきた記憶があります。
だって「一刻も早くゴジラにお引き取り願いたい」って思いは、誰もが一緒なわけですからね(笑)。そういう集合体の一断面として1人ひとりの個性があるわけで、その逆では決してない。こうして皆が一丸となっていくドラマに感動があったと思います。例えばそこに、いろんな人や組織の思惑が衝突したり、誰かが誰かの足を引っ張ったりする対立の構図を持ち込めば、群像劇の要素が出てきますが「シン・ゴジラ」はそういう要素はバッサリ落として潔く作ってくれてますよね。家族愛もなければ、登場人物の恋愛模様もない。被災した庶民の生活事情すら直接的には描かれない。あるのはひたすら、ゴジラという“現実問題”に最前線で対処する人々の苦闘のみ。この思い切った割り切り方が素晴らしい。
「PVに応じてお金が儲かる」……これは一見すると、とても公平なすばらしい仕組みに見える。しかし、最近では、これがネット上のコンテンツの価値を貶める方向に作用する傾向が強くなってきている。要するに、良い記事も、悪い記事も、“PV”の前では公平に扱われてしまうからだ。
丹念な取材のうえに書かれた記事の1万PVも、悪意に満ちた炎上記事で稼いだ1万PVも、このアフィリエイトの仕組みの前では“同列”になる。そして、悲しいかな、「悪い記事」のほうがPVは簡単に稼ぎやすいという現実がある。一説によれば、ネット上の書き込みにおいては、善意よりも悪意のほうが8倍以上の拡散性があるとも聞く。
悪意とまでは行かないまでも、PV軸でしか価値付けがされない問題はたくさんある。
例えば、電ファミの企画記事は、それこそ一本当たりのアベレージPVは、通常のニュースサイトと比べてもべらぼうに高いくらいだと思う。数十万PVの記事はざらにあるし、ものによっては100万PVを超える記事もあり、広くネットで読まれた&読者の心に残った記事も少なくないと自負している。しかし、その一方では、ネットには100万PVを超える記事などはいくらでもある。例えば、仔猫の写真まとめや、ちょっとエッチな画像まとめなどがそれだ。そういうネタ自体は否定しないし、それはそれであるべきなんだけども、じゃあ、頑張って取材して書いた記事と、ネットから仔猫の画像を集めただけの記事が、同列に扱われてしまうとしたら……やっぱり、頑張って書く人は報われない世界になってしまう。
丁寧に書かれた“良い記事”にインセンティブが働かない世界で、誰が良い記事を書こうと思うだろうか? これはアフィブログだけの問題ではなく、商業メディアでも、広告ビジネスをしている以上、少なからずそういうジレンマはある。本当に良い記事を書ける優れた書き手ほど、ここの葛藤は根深いんじゃないかと思う。
そもそも、商業メディアは企業が運営するものでもあるし、企業である以上は営利を求めなければならない。そうなると、なおさら“簡単にPVを稼げる誘惑”に抗うのは、とても骨のいる作業でもある。現状、そこを真面目にやろうとする動機は、ほとんど矜恃やプライドといった部分でしかないのも事実。一方で、“割り切った”人たちのほうが経済的には評価されてしまうあたり、なんともやるせない気持ちにはなってしまうのは正直なところであろう。
『ニーアオートマタ』の持つその残酷な魅力は、その「人間というものにこだわるから先に進まない、新しい物語を始められない。故意に終わりに留まり続けるからいつまでも始まらない物語」の中だからこそ際立つ、極めて無意味にあがき続ける人形たちの純粋すぎる舞踏の美しさに拠る部分が大きい。物語がないからこそ、その中に浮き彫りになる「自我」の地獄は鮮明になり、そのとてつもなく儚いモノが砂で作った城のように崩れ去っていく瞬間、気高く純粋なモノが堕ちる瞬間を目撃し、それを無上かつ極上の「美」そのものだと感じてしまう。実に趣味の悪い話だ。
核心部分はゲームの進行度にあわせてストーリー上で明らかにされているが、それを踏まえても踏まえなくとも、このゲームの基本軸は「人類の為に戦う月のアンドロイド」と「エイリアンの兵器である機械生命体」との戦いだ。前作をプレイした、あるいは顛末を知っている人間なら、この時点ですぐにある種の違和感を感じることだろう。そう、前作の複数エンディングの中で「人類存続」の可能性のあるエンディングはDエンドは勿論のこと、それ以外のエンディング群の中にすら「一つとして」無かったからだ。しかしその数千年後、アンドロイドたちは人類の為に戦っている。それがどういうことなのかを説明するのは簡単だが、問題の本質は『ニーアレプリカント』後の世界で人類がどうなったかではない。本質は「人類の為に戦う」という大儀が前作から数千年の後に未だにアンドロイドの固体、群体ベースで「引き継がれている」ということだ。たとえそれが誰の、何の目的でそうなっているかにかかわらず、「人類」という名の確固たる宗教がそこに存在している。そして敵である機械生命体もまた「人類」の活動を模倣しながら、「家族」「恋愛」「国家」「哲学」「良心」その他人間に関する全てを貪欲かつ異常なほどに理解しようと努めている。人類が本当に存在しているかどうかという問題を瑣末な事だと思わせる程に、アンドロイド側、機械生命体側、その両者に見られるその人類への執着は、いまだにそこが「人類という概念」によって支配されている場所であるという確信的な意味を持ち、人類という古い世界がいまだ終末の煉獄の中に囚われ続けていることをはっきりと証明している。旧世代の概念が残り続けることは終末の完了を意味しない。従って新しく始まるものもまた存在しない。この作品に描かれている世界は「ポストアポカリプス」ではなく「アポカリプス」の渦中に永遠に留め置かれる無間地獄だ。